2018年12月25日

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密約

北方領土返還要求は米国の極東戦略

 アメリカは太平洋戦争の日本降伏にソ連の協力が欠かせないため、日ソ中立条約一方的破棄、すなわちソ連対日参戦を促し、極東密約(ヤルタ協定)で、ソ連に利益(北方領土占領)を提示し、ソ連は実際に北方領土を占領した。したがって、北方領土返還は密約の当事国である米ロに於いて、ソ連参戦前北方領土原状回復をすれば済む問題である。

 
■大西洋憲章(国連憲章の基本理念):領土変更は認めない
 
そうであるのに、終結していない朝鮮戦争と同じで、後にロシア・中国がついている北朝鮮問題で、アメリカは密約で助命して、CIAの工作員にした、A級戦犯・岸信介の孫の安部晋三総理を言いなりロボットにして、経済協力エサに、北方領土を奪回して、北朝鮮牽制を口実に極東軍事基地を築く魂胆である。アメリカは安倍総理の空っぽの頭にAIチップを埋め込んで遠隔操作しているのではないか。しかし、ロシアは属国戦犯ロボットの安倍総理を相手にしない。

 ■ポツダム宣言(全日本軍の無条件降伏を要求する最終宣言・国連設立理念)全13カ条の10条「我々の意志は日本人を民族として奴隷化しまた日本国民を滅亡させようとするものではないが、日本における捕虜虐待を含む一切戦争犯罪人処罰されるべきである。日本政府は日本国国民における民主主義的傾向の復活を強化し、これを妨げるあらゆる障碍は排除するべきであり、言論宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されるべきである。」・・・世界共通理念・・・日本国憲法

 だが、アメリカの本心は、日本人に真実から目を背かせる「トルーマンの3S政策」Sports・Screen・Sexで、日本人を猿にして、虚実自由という檻で飼う、日本人家畜化政策:日本人奴隷化政策だった。

 ポツダム宣言の大部分はアメリカが作成し、トルーマン大統領が自身を含めて英国のチャーチル首相・中華民国の蒋介石の3人分の署名を行った。ソ連は対日参戦前で署名していない。

■ アメリカの狙い

憲法改正  自衛隊を戦力補給でアメリカ軍にする。 
北方領土返還  北方領土を極東軍事基地にする。

 密約1:北方領土占領をエサに、日ソ中立条約を一方的に破棄させて、ソ連を参戦させておきながら、今度は密約2:売国奴のA級戦犯の孫を使ってロシアから北方領土を取り返す魂胆。アメリカが日本社会から戦犯関係者を一掃して、日本属国支配から撤退しない限り、北方領土の日本返還はない。

 ディック・チェイニーは国防長官当時の1992年(平成4年)、議会で「米軍が日本にいるのは、日本を防衛するためではない。米軍が必要とあらば、常に出動できる前方基地として使用できるようにするため。加えて日本は駐留経費の75%を負担してくれる」思いやり予算とまで発言している。

 また2004年(平成16年)の日本プレス・クラブでの記者会見で、当時国務副長官であるリチャード・アーミテージは「安保条約は、日本あるいは日本の施政権下にある領土に対するいかなる攻撃も、米国に対する攻撃とみなされることを定めている」と発言している。

日本主権レベル疑う
日本国民の皆さん
「しっかりしろ」の強烈なメッセージ
 


 日本が配備する米国製のミサイル防衛(MD)システムに関し、プーチン氏は「防衛目的だと(いう日本の説明)は信じていない。システムは攻撃能力を備えている」と語った。ロシアは、日本が配備予定の陸上配備型迎撃ミサイルシステム「イージス・アショア」にも懸念を表明している。

 また、
沖縄県玉城デニー知事や住民の反対にもかかわらず、米軍普天間飛行場の移設計画に伴い同県名護市辺野古沿岸への土砂投入が始まったことについて「日本の主権のレベルを疑ってしまう批判的な見解を示した。

 極東密約は大日本帝国を降伏させるためには便利な道具だったが、アメリカはソ連に手の内を知られてしまった。

アメリカの狙い
 沖縄と北の北方領土に北朝鮮(中国・ロシア)を牽制する軍事基地を築いて、最前線自衛隊を配備する。

 アメリカは朝鮮戦争で苦戦した。今の中国・ロシアは経済的にも軍事的にも強くなった。アメリカは優位に立つことができるだろうか? 日本は下手をすると、アメリカ攻撃の前戦基地にされる。

 アメリカは戦犯を日本属国支配の「目眩まし」に使ってきた。安倍政権はその仕上げの段階である。この機会を逃がしたら後がない。安倍晋三のごとき底なしのバカは二度と出てこない。アメリカは必死である。日本国民は60年安保を思い出せ!

 日本が生き延びるには、戦犯関連の売国奴らを政界から追放して、アメリカから独立することである。 


目 次

● ソ連に北方領土占領がなった経緯

第二次世界大戦

 1939年(昭和14年)9月1日のドイツ軍のポーランド侵攻に始まり、1945年(昭和20年)8月15日の日本の敗北までの足かけ8年に及ぶ世界大戦。この間、「ドイツ・イタリア・日本を中心とした枢軸国に対し、「イギリス・フランス・中国・アメリカ合衆国・途中から参戦したソ連を加えた連合国(最終的には52カ国)」との2陣営に分かれ、主としてヨーロッパとアジア・太平洋地域で戦闘が行われ、約5000万人の死者を出した未曾有の戦争だった。

■第1期:東ヨーロッパにおける戦争
 939年にドイツのヒトラーは、スターリンのソ連との間で独ソ不可侵条約を締結した上で、9月1日、ポーランドに侵入、「電撃戦」を展開した。同時にソ連もポーランド東半分を制圧し、さらにフィンランド・バルト三国などを併合した。これに対し、イギリス・フランスはドイツに宣戦布告したが、すぐに援軍を派遣することなく、西ヨーロッパでは「奇妙な戦争」といわれるにらみ合いが続いた。

■第2期:西ヨーロッパでの戦争
 1940年4月、ドイツは西部方面でも侵攻を開始、デンマーク・ノルウェー侵攻についでオランダ・ベルギーに侵攻し、フランスに迫った。この段階でムッソリーニ政権下のイタリアがドイツ側に参戦した。ドイツ軍は6月にパリに到達してフランスを降伏させ、フランスにヴィシーの親独政権が成立した。イギリスではチャーチル首相に代わり、大陸のイギリス軍はダンケルクから撤退したが、イギリス本土への激しい空爆(バトルオブブリテン)に耐えてドイツ軍の上陸を許さなかった。この間、アジアでは日中戦争が継続しており、日本軍は重慶の蒋介石政権を屈服させるため、1940年9月、フランス領インドシナ進駐(北部仏印進駐)を実行し、イギリス、アメリカとの対立が深まった。同月、日独伊三国同盟が結成され、日本はアメリカを仮想敵国とすることを明確にした。

■第3期:独ソ戦と太平洋戦争の開始
 アメリカは中立を維持していたがファシズムの強大化に危機感を抱き、1941年3月には武器貸与法を成立させ、イギリス支援を明確にした。同年4月、ヒトラーは方向を転じて、バルカン侵攻を開始、さらに6月に独ソ不可侵条約を破棄してソ連に侵攻(バルバロッサ作戦)して独ソ戦が始まった。8月、F=ローズヴェルトチャーチル大西洋憲章を発表して、ファイズム国家に対する戦いという戦争目的で一致し、戦後の国際平和機構の再建で合意した。アメリカは正式には参戦はしていなかったが、武器や軍需物資をイギリスだけでなくソ連にも供給し、事実上の参戦状態となっていた。
 一方のアジアでは、日本は日中戦争の打開のため、大東亜共栄圏構想を打ち出し、41年4月に
■日ソ中立条約を締結した上で、アメリカ・イギリスとの戦争を決定し、12月8日に真珠湾攻撃を実行して太平洋戦争が始まった。これによってアメリカ合衆国に参戦の大義名分が与えられ、ここに「連合国陣営」と「枢軸国陣営」による世界大戦に拡大した。日本軍は東南アジアに急速に勢力を拡大、香港マレー半島マニラシンガポール占領、さらにインドネシアビルマ侵攻し、占領地軍政を敷いていった。

■第4期:連合国軍の反撃開始
 1942年6月、太平洋ではミッドウェー海戦でアメリカ海軍が日本に勝利。ヨーロッパでは連合軍によるドイツ空爆が始まり、11月には連合軍がアフリカに上陸して反撃が開始された。ドイツ軍は42年8月からスターリングラードの戦いを続けたが、1943年7月、ついに包囲戦に失敗したことを期に東部戦線でも後退を始め、連合国側の態勢が整うに伴って不利な戦いを強いられる。同年7月には連合軍がイタリアのシチリア島上陸、イタリア国内ではムッソリーニ政権が倒れ、バドリオ内閣が降伏を表明した。ドイツ軍はイタリアに進駐して9月にイタリア半島に上陸した連合軍を迎え撃ち、イタリアを南北に二分する激戦続く。43年末、連合国首脳部はカイロ会談テヘラン会談などを続け、勝利を予定して戦後対策を始めた。

■第5期:連合国の勝利

THE DーDAY LANDINGS AND THE BATTLE OF NORMANDY FRANCE

 1944年6月に連合国軍がノルマンディー上陸作戦を敢行、ドイツ軍は次第に追いつめられる。連合軍は44年8月にパリを解放。1945年2月、連合国軍首脳はヤルタ会談で戦後処理で合意した。西から迫ったアメリカ・イギリス軍と東から迫ったソ連軍が4月25日にはエルベ川で邂逅し、
米兵とソ連兵が握手し■「エルベの誓い」と言われる不戦の誓いをした。
 
ベルリンはソ連軍が先着して包囲し、1945年4月30日にヒトラーが自殺し、ベルリンは陥落して、5月8日に正式にドイツが無条件降伏してヨーロッパの戦争は終わった。

 アジアでは日本軍の抵抗が続いたが、1945年3〜6月は沖縄戦5月の東京大空襲と焦土化が進み、7月、連合国はポツダム会談で日本に無条件降伏を勧告。8月に広島(6日)・長崎(9日)への原爆投下ソ連の対日参戦(8日)が続き、ついに■8月14日に日本が無条件降伏(国民への発表は8月15日)して大戦は終結した。正式には9月2日に降伏文書に日本代表が署名したので、その日が戦争の終結日である。

 1939年9月のイギリスの対独宣戦布告の中、アメリカ議会は11月に中立法を改正して維持したが、ルーズベルト大統領は戦争状態にある国(英国とフランス)への武器の輸出を、政府の認可制度によって可能にした。そして1940年7月には英国への無制限の援助を行うことを表明した。さらにアメリカ議会は1941年3月には武器貸与法を成立させた。

NO1 米英参謀会談 1941年1月29日〜3月27日   
 場所:ワシントンD.C. アメリカ合衆国
 主要な出席者:
アメリカ軍イギリス軍カナダ軍の参謀
 主な討議内容と結果:
アメリカ戦争参加することに対する基本同意と計画策定

NO2 武器貸与法の成立 1941年 3月 
 第二次世界大戦が進行する中、フランクリン=ルーズヴェルト大統領の提案によって、アメリカ議会はイギリスなど枢軸国側と戦う国に対して、武器・軍需物資を貸与することを定めた。この■武器貸与法 は、利子付きで返済する必要がある借款ではなく、貸与または賃貸するものであり、使用後に返還するか、賃貸料を支払えばよいので、イギリスにとって負担は少なかった。また、1941年年6月に独ソ戦が始まると、ソ連に対しても戦車・飛行機などを提供して支援した。
 アメリカは1941年12月8日、
日本の真珠湾攻撃によって日本と開戦、ドイツ・イタリアも宣戦布告したのでここで正式に参戦し、ヨーロッパ戦線・太平洋戦線に莫大な兵力を投入することになるが、同時にこの武器貸与法はイギリスフランスのみならず、ソ連中国(蒋介石政権)も対象として連合国を幅広く支援した。
アメリカにとっての武器貸与法
 武器貸与法が成立し、連合国諸国に大規模な軍需品の提供が始まったことは、
●軍需産業を中心とするアメリカ経済にとっても重大な意味を持っていた。世界恐慌以来、アメリカの失業者の増大はなおも続いており、1940年には800万人を数えていた。ところが1941年の武器貸与法の成立による軍需産業の本格化、さらに同年末の参戦によって、1942年には失業者は266万に減少(失業率4.7%)した。1943〜44年は失業率1.9〜1.2%という超完全雇用を達成した。ニューディールが理想とした完全雇用は、●戦争景気で達成されたのだった。
 
 

NO3 大西洋憲章 Atlantic Charter 1941年8月14日  
 第二次世界大戦が勃発して約2年後、ドイツのソ連侵略開始(1941.6.22)によって大戦は新しい局面を迎えた。
 英国首相チャーチルと米国大統領ルーズベルトが大西洋上で会談して発表した共同宣言第二次大戦戦後世界秩序についての構想を示したもので、領土の不拡大、政体選択の自由、各国間の経済協力、恐怖および欠乏からの解放、公海の自由、武力行使放棄などを内容とし、のちの国連憲章の基本理念となった。
 8項目からなる両国の共同宣言。すなわち、
〔1〕領土の不拡大〔2〕国民の合意なき領土変更の不承認、〔3〕国民の政体選択の権利の尊重と、奪われた主権の回復、〔4〕通商と原料の均等な開放、〔5〕各国間の経済協力、〔6〕ナチス暴政の打倒と、恐怖と欠乏からの解放、〔7〕海洋航行の自由、〔8〕武力使用放棄と、恒久的一般的安全保障体制確立である。特に第8項は、国際連合設立につらなっていくので、重要な意義を持っている。
 当時、アメリカは、ヨーロッパとアジアの戦争に対し、中立国の立場にあったが、孤立するイギリスへの道義的、物質的支援が自国国益
(アメリカ第一主義)合致する、とのルーズベルト大統領の判断で、異例の会談の開催、共同宣言の発表となったものである。これにより、アメリカは、ドイツとの対決姿勢を、それまで以上に明確にした。 
 
米英両国首脳は,1941年8月12日に大西洋憲章に署名し,9月24日にはソ連など15ヵ国が参加を表明した。次いで太平洋戦争勃発直後の1942年1月1日,■米英ソ中4ヵ国代表は,自由と人権の擁護,ファシズム諸国の打倒などを内容とする連合国共同宣言を発表した。  

NO4 イラン進駐 1941年8月25日〜9月17日 
 イギリスソビエト連邦によるイラン侵攻作戦。この侵攻作戦の目的は、イギリスの油田の安全確保と東部戦線ナチス・ドイツと戦っているソビエト連邦に対する補給線の確保である。 
 第二次大戦中、イランは中立の立場をとり、イラン国内に居住するドイツ人の追放を拒否し、連合国に鉄道の使用を拒否するなど、連合国側から見れば協力的でない態度をとった。連合国のイギリスとソビエト連邦は、1941年8月25日に
「鉄道を含む補給路」と、「石油などの豊富な資源の確保」のためにイランへ侵攻した。この侵攻を受けてレザー・シャーは、連合国の一国でイランとの関係も深かったアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領に仲介を求めたものの拒否され、やがて、イラン軍は制圧されることになる(これが■イランとアメリカの不仲の理由)。
【戦後】
 
この重要な補給路(ペルシア回廊)はソビエト連邦へ大量の補給物資を供給(軍需物資を500万トン以上)したのみならず、中近東のイギリス軍にも物資を供給した。1942年1月、新しいシャーはイギリスならびにソ連と三国間条約に署名し、イランは条約により戦争で必要な非軍事的な援助を連合国へ提供した。イランの指導者は信用していなかったが、条約の第5条は連合軍のイラン撤収を「休戦後6ヶ月以内」とした。1943年9月、イランはドイツに対して宣戦布告を行い、連合国の一員となった。  その年の11月、テヘラン会談において、フランクリン・D・ルーズベルト大統領、ウィンストン・チャーチル首相、ヨシフ・スターリン書記長はイランの独立と領圏への彼らの関与を再確認し、経済援助
(エサ)をイランへ広げる意思を示した。
 終戦時、イギリス軍は撤収した。一方、ソビエト連邦軍はイラン北西部からの撤兵を拒んだのみならず、1945年末にイラン領アゼルバイジャンのアゼルバイジャン国民政府クルド人民共和国という親ソビエト国家設立の反乱を支援した。北西部のソビエト傀儡政権は非常に短命に終わり、1946年5月、両国とソビエト連邦で石油採掘契約が締結され後にソビエト連邦軍が撤兵すると両共和国はすぐに倒され、石油採掘権は取り消された。

NO5 ハルノート HullーNote 1941年11月26日 
 太平洋戦争直前の1941年11月26日における日米交渉で、アメリカ国務長官 C =ハルによる覚書。日本軍の中国および仏領インドシナからの全面撤兵要求、蒋介石政権以外の政権の承諾拒否などを内容とするもので、アジアの状態を満州事変前に戻せという内容。日本はこれをアメリカの事実上の最後通牒とみなし、12月1日開戦を決定。   

NO6 太平洋戦争開戦・真珠湾攻撃 Attack on Pearl Harbor
 
1941年(昭和16年) 12月8日未明 
 11月5日の御前会議で12月初頭の開戦が決定され、日本は11月26日に提示されたアメリカ側のハルノート最後通牒と受け取り、12月1日の御前会議で8日の開戦を正式に決定した。
【開戦前後の状況】
 日本は
1941年4月に日ソ中立条約締結した上で、アメリカ・イギリスとの戦争を決定し、12月8日に真珠湾攻撃を実行して太平洋戦争が始まった。これによって■アメリカに参戦の大義名分が与えられ、ここに「連合国陣営」と「枢軸国陣営」による世界大戦に拡大した。
 

NO7 連合国共同宣言 Joint Declaration by United Nations
 1942年1月1日
 ワシントン D.C.で署名された対枢軸国戦争完遂の決意を表明した連合国 26ヵ国の共同宣言。前年末にワシントン D.C.でアメリカの F.ルーズベルト大統領,イギリスの W.チャーチル首相,ソ連の M. M.リトビノフ大使らが協議のうえ作成した。  
 この宣言はその前文で,前年の大西洋憲章
目的原則賛意を表し,また敵国 (枢軸国側) に対する完全な勝利が人類の正義のために必要であることを述べたうえ,(1) 三国条約側 (枢軸国側) に対し,連合国各国の軍事的,経済的な全部の資源を使用すること,(2) 敵国と単独の休戦または講和を行わないことを誓約した。連合国宣言の署名国は 45年3月1日までに46ヵ国に達し,宣言の署名国であることが、国際連合の原加盟国となる資格の一つで、この 46ヵ国がサンフランシスコにおける国際連合創設会議への当初招待国となった。なお,この宣言の表題で United Nations (連合国) という語が初めて使われ,のちにそれが国際連合 The United Nationsの名称として選ばれた。
 

NO8 カサブランカ会談 Casablanca Conference
 
1943年1月14日〜23日 
 アメリカのF.ルーズベルト大統領とイギリスのW.チャーチル首相が、モロッコカサブランカで開いた第3回連合国戦争指導会議。
 米英軍のアフリカ作戦成功後の作戦について、シチリア島とイタリア本土への上陸を敢行することを決めた。太平洋戦線での作戦も協議し、同戦線を地中海戦線同様に重視することになった。
 さらに、
■原子爆弾開発状況についても話合い、またドイツ、イタリアおよび日本に対して無条件降伏を要求する方針を決定した。
 同年10月19〜30日モスクワで開かれた
米英ソ3国外相会議では、日独伊など<敵国>の占領統治直接その国を軍事占領した連合国排他的な実権を握って実施することが決定され、席上、スターリン・ソ連首相は、ドイツ降伏後に対日参戦を行うと初めて述べた。
 カサブランカ会談は、既に勝利を確信した連合国が、
戦後世界アウトラインを引くために開催したものです。しかし、ここで最も留意すべきことは、枢軸国陣営に対して「無条件降伏」の要求がなされた点ではないでしょうか?
 無条件ということは、降伏した側は
「何をされても文句を言えない」ということです。
 それ以前の戦争は、切りの良いところまで戦って戦局の行方がはっきりしたら、第三国に仲介を頼むのが通例でした。そして、対戦国同士が綿密に話し合い、互いに条件を決めて仲直りするのです。しかし、第二次大戦では「無条件降伏」が要求されました。これでは、枢軸国は、余力があるかぎり戦い続けるしかありません。枢軸国は、自らの政治的判断で、有利に戦争を止める道を完全に封じられてしまったのです。
 実は、チャーチルは反対したようです。これ以上戦争を長引かせてしまっては、日独のみならずイギリスやフランス、中国といった国々が大いに疲弊し、
戦後社会アメリカ一人勝ちになってしまうからです。そして、これこそアメリカの狙いだったのでしょう。戦争が長引くことで有利になるのは、アメリカ一国なのですから。
 アメリカは、この戦争で空前の好景気に見舞われています。
軍需産業を中心とした実物経済が、笑いが止まらないくらいに儲かり、失業率も劇的に減少したのです。おまけに、日独が相手なら、アメリカ本土が攻撃される恐れは皆無です。そんな彼らが、おいそれと戦争をやめるはずがありません。
 カサンブランカ会談は、それ以前の数世紀に渡る世界的秩序を、一挙に覆すものでした。それ以前の世界は、複数の大国が互いに睨み合い、力のバランスを均衡させながら共存していました。バランスが崩れそうになると、イギリスのような国が弱者に肩入れして、力の均衡を元に戻していたのです。例えば日露戦争は、突出しようとしたロシアを押さえるために、イギリスが日本と結託して起こした戦争でした。
アメリカは、このような世界秩序を否定し、アメリカ独占的世界支配体制を確立しようとしたのでしょう。
 ところが、思わぬ
伏兵が現れました。ソビエト連邦です。ソビエトは、その勢力伸張を日独に封じ込められる状態にありました。「無条件降伏」の要求によって、日独が最後まで連合軍と戦って壊滅したら、もはやソ連を押さえつける勢力は存在しなくなります。これは、ソ連にとって千載一遇チャンスだったのです。アメリカの陰謀を鋭く見抜いたスターリンは、ルーズベルトをうまく騙して、己の利権伸張を図りました。チャーチルは、どうやらスターリンの魂胆を見抜いたようです。しかし、ルーズベルトは違いました。彼は、日独よりもソ連の能力を軽視してしまったのです。
 
1943年1月は、冷戦構造幕開けの時といっても過言ではないでしょう。アメリカがあそこまで日独を追い詰めなければ、ソ連のあれほどの国力強化はあり得なかったからです。・・・歴史は、大きく音を立てて転換を始めました(「第八話カサンブランカ会談」を引用)。
www.t3.rim.or.jp/~miukun/pacific8.htm

NO9 カイロ宣言 Cairo Declaration 1943年11月27日
 
アジアの戦後処理 対日戦の基本目的
 連合国戦後処理構想の一環として、1943年11月23日〜27日、エジプトのカイロで開催された会談。アメリカ大統領フランクリン=ルーズヴェルト、イギリス首相チャーチル、中国主席蒋介石が参加した。会談の議題が対日戦争であったので、日ソ中立条約を締結していたソ連スターリンは参加しなかった。
 第1次カイロ会談の最終日にアメリカの F.ルーズベルト,イギリスの W.チャーチルおよび中華民国蒋介石の3首脳が署名し,同年 12月1日に発表された対日戦の基本目的についての宣言。
 おもな内容は次のとおり。 (1) 3国は「日本国に対する将来の軍事行動を協定した」こと,(2) 3国は「野蛮な敵国には仮借のない圧力を加える決意を表明した」こと,(3) 日本の侵略を「制止し処罰する」が,
3国とも領土拡張意図はないこと,(4) 第1次世界大戦後日本が奪取または占領した太平洋における一切の島嶼の剥奪,ならびに満州,台湾,澎湖列島などの中華民国への返還,日本が暴力と貪欲によって略取したすべての地域からの日本の駆逐,(5) 朝鮮を解放,独立させる決意を有すること,(6) 以上の目的で,3国は日本の無条件降伏まで,日本と交戦中の他の諸国と協力して長期間の行動を続行する旨を明らかにした。
 日本の無条件降伏要求と降伏後の日本領土の決定などを内容とし、テヘラン会談ヤルタ会談を経てポツダム宣言の基礎となった。
 

 NO10 テヘラン会談 1943年11月28日〜12月1日
 
最初の三巨頭会議 
  ルーズヴェルト、チャーチル,スターリンの米英ソ首脳がテヘランで開いた会談。戦争を勝利に導くための3国の協力,イランの独立と領土保全,北フランスに第二戦線を形成することを決定,ソ連対日宣戦を約した
 
 ドイツとその同盟国との最終的な戦略
 
 オーバーロード作戦の日程(第二次世界大戦においてドイツ軍占領中の西ヨーロッパへの進行に成功した連合軍の作戦「ノルマンディーの戦い」のコードネーム。本作戦は、1944年6月6日、一般にDーDayとして知られる)
 
 

NO11 マルタ会談 1945年1月30日〜2月3日 
 
ヤルタ会談に向けての準備 Malta Conference
 アメリカ合衆国フランクリン・ルーズベルト大統領とイギリスウィンストン・チャーチル首相の間でマルタ島で行われた会談である。
 会談の目的は統合参謀本部(CCS)によりドイツに対する最後の戦いの計画を行うことであった。両リーダーは、赤軍が中央ヨーロッパまで前進することは望ましくないと言う点に同意した。他に■ホロコーストによる数百万人の難民をどうするかと言う点を議論した。 マルタ会談は1945年1月30日に開始されたが、ルーズベルトは会談の最終日の2月2日まで到着しなかった。
 赤軍
 旧ソ連陸軍の旧称。正式には労農赤軍という。ロシア革命における「赤衛隊」(労働者の武装部隊)を受け継いだもので、1918年1月の布告で創設され、46年にソ連陸軍と改称された。
 ホロコースト
 
ナチス・ドイツによるユダヤ人大虐殺。ヒトラーが1933年に政権を握ると、ユダヤ人迫害を開始。第2次世界大戦開始後に大量虐殺が始まった。占領下のポーランドのアウシュビッツやソビブルなどの収容所にユダヤ人を移送し、ガス室などで殺害した。45年までに約600万人が殺されたとされる。移送の責任者アイヒマンは戦後、南米に逃亡。60年にとらえられ、エルサレムで死刑判決を受け、62年に執行された。
 

NO12 ヤルタ会談 1945年2月4日〜11日
 
ドイツ降伏までの最終計画 ヨーロッパの戦後計画 国際連合会議の日程設定 Yalta Conference
 日本へのソ連参戦の状況確認
 
 クリミア半島ヤルタで行われたアメリカの F.ルーズベルト大統領,イギリスの W.チャーチル首相,ソ連の I.スターリン首相の会議。クリミア会議とも呼ばれる。これが連合国3巨頭の最後の会談となった (ルーズベルトは 1945年4月に死去) 。
 同会談では戦後ドイツ処理問題や東欧問題などの第2次世界大戦の戦後処理,国際連合の創設や
ソ連対日参戦などについて話し合われ,10を越える各種の協定 (秘密協定を含む) が結ばれた。
 この会談はそれまでに開かれたカイロ会談などの延長線上に位置する会談であり,
「戦後の国際秩序の枠組みと基礎」を確立した重要な会談であった。このため第2次世界大戦後の国際秩序をヤルタ体制と呼ぶようになった。

【概要】
●1945年1月にポーランドを占領したソ連軍赤軍)がドイツ国境付近に達しつつあり、西部戦線においてはアメリカ・イギリス等の連合軍がライン川に迫る情勢のもと、連合国の主要3カ国首脳の会談が行われた。会談の結果、第二次世界大戦後の処理についてヤルタ協定を結び、●
イギリス・アメリカ・フランス・ソ連の4カ国によるドイツ分割統治、●ポーランドの国境策定、エストニアラトビアリトアニアバルト三国の処遇などの東欧諸国の戦後処理が取り決められた。
●併せて、
アメリカとソ連の間でヤルタ秘密協定を締結し、ドイツ敗戦後90日後ソ連対日参戦、および千島列島樺太朝鮮半島台湾などの大日本帝国領土の処遇も決定し、2018年現在も続く北方領土問題の端緒となった。
●また、戦後の発足が議論されていた国際連合
投票方式について、イギリス・アメリカ・フランス・中華民国・ソ連の5カ国(後の国際連合常任理事国メンバー)の拒否権を認めたのもこの会談であった。

■ 極東密約(ヤルタ協定)
 主に大日本帝国に関して、1945年2月8日アメリカルーズベルトとソ連のスターリン
秘密会談を行い、その後イギリスのチャーチルとの間で交わされた秘密協定
 1944年12月14日に、スターリンはアメリカの駐ソ大使W・アヴェレル・ハリマンに対して、満州国の権益(南満州鉄道や港)、樺太(サハリン)南部や千島列島などの領有を要求しており、ルーズベルトは●太平洋戦争
日本の降伏
ソ連の協力欠かせないため、●1945年2月8日にこれらの要求に応じる形で、日ソ中立条約一方的破棄、すなわちソ連対日参戦した。
 ヤルタ会談では、これが秘密協定としてまとめられた。この協定では、ソ連の強い影響下にあった外モンゴルモンゴル人民共和国)の現状を維持すること、樺太(サハリン)南部をソ連に返還すること、千島列島をソ連に引き渡すこと満州国の港湾と南満州鉄道における、ソ連の権益を確保することなどを条件に、ドイツ降伏後2ヶ月又は3ヶ月を経て、ソ連が対日参戦することが取り決められた。
 
アメリカからソ連に対する対日参戦要請は早く、日米開戦翌日(アメリカ時間)の1941年12月8日にソ連の駐米大使マクシム・リトヴィノフにルーズベルト大統領とハル国務長官から出されている。このときはソ連のモロトフ外相からリトヴィノフに「独ソ戦への集中」「日ソ中立条約の制約から不可能と回答するよう訓令が送られた
 しかしその10日後には、スターリンはイギリスのイーデン外相に対し、将来日本に対する戦争に参加するであろうと表明した。スターリンが、具体的な時期を明らかにして対日参戦の意思を示したのは、
1943年10月のモスクワでの連合国外相会談の際で、ハル国務長官に対して「連合国のドイツへの勝利後に対日戦争に参加する」と述べたことを、ハルやスターリンの通訳が証言している。ヤルタ協定はこうした積み重ねの上に結ばれたものだった
 ドイツが無条件降伏した、1945年5月8日(ヨーロッパ戦勝記念日)の約3ヵ月後の8月8日スターリンヤルタでの協定に従って、ソ連は大日本帝国宣戦布告し、
翌9日満州国に侵入(一斉に150万の軍が国境を越えて満州に進撃)、千島列島樺太を占領した。しかし、ソ連対日参戦の翌々日(1945年8月10日)に、大日本帝国が「ポツダム宣言受諾」を連合国に通告したため、
戦争末期9月2日日本の降伏文書調印まで)の極めて短期間の間に、ソ連戦果に対して大日本帝国領土与えるという、結果としてソ連に有利な内容になった
 ■1946年(昭和21年)2月11日に極東密約(ヤルタ協定)が公開された。
 なお1956年に、共和党アイゼンハワー政権は「(ソ連による北方領土占有を含む)ヤルタ協定はルーズベルト個人の文書であり、アメリカ合衆国連邦政府の公式文書ではなく無効である」とのアメリカ合衆国国務省が公式声明を発出している。また、アメリカ合衆国上院は、1951年(昭和26年)のサンフランシスコ講和条約批准を承認する際、決議において「この承認は、合衆国としてヤルタ協定に含まれている、ソ連に有利な規定の承認を意味しない」との宣言を行っている。
 ソ連ポーランドチェコスロバキアの共産圏3国は講和会議に参加したものの、同じ共産主義国の中華人民共和国の不参加を理由に会議の無効を訴え署名しなかった。

 セイロン代表ジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナは、戦争中の空襲を指摘した上で、責任の所在・謝罪・反省を受け入れて、心の問題としての憎しみの連鎖が戦争に成る事を戒めた「憎悪は憎悪によって止むことはなく、慈愛によって止む」という仏陀の言葉を引用して、日本に対する賠償請求を放棄する演説を行った。

台湾と朝鮮半島について
 台湾について、米ソ両国はカイロ会談で決定していた中華民国への返還を改めて確認した。また朝鮮半島は、当面の間連合国の信託統治とすることとし、
第二次世界大戦になって北緯38度線を境に暫定的に南側アメリカ北側ソ連へと分割占領にする事と決定した。しかし、米ソ対立が深刻になると、その代理戦争朝鮮戦争となって勃発し、朝鮮半島は2018年に至る現在も、38度線を境に分断されている。

日本側の停戦工作への影響
 
ソ連はヤルタ会談で米英両国に「ドイツ降伏後2月又は3月を経て、対日戦すること」を約束し、4月5日に「有効期限(1946年4月24日)以後の中立条約の不延長」を通告してきた。日本は「ソ連の斡旋による和平工作」(連合国との和平調停)を行ったが失敗し、ソ連8月8日対日参戦を行い、ここに日ソ中立条約は失効した。

 1945年(昭和20年)1月6日、アメリカ軍の動きを懸念した昭和天皇重臣の意見を求め、7月にはヨハンセングループの吉田茂が支持する近衛文麿がモスクワに派遣され、ソ連に対し
連合国との和平調停仲介」を求めるが、既にヤルタ協定が行われていたため仲介拒絶された、と言われている

会談の意義
 本会談の意義については、アメリカ、イギリス、ソ連といった戦勝国による、第二次世界大戦後における
世界国際レジーム枠組みに関する「利害調整の場」であったとする指摘が多い。中でも、領土に関する様々な取決めについては、当事国抜きで行われたにもかかわらず、中・東欧の政治体制、外交問題等、戦後世界に非常に広範で多岐に渡る影響を及ぼしている。
 一連の協約のうち、3首脳コミュニケが1945年2月12日に発表されただけで、ヤルタ秘密協定は1年後の46年2月11日、ヤルタ協定は47年3月24日、それぞれアメリカ国務省から一方的に発表された。ヤルタ会談の一連の取決めは、戦後国際政治体制すなわち「ヤルタ体制」の出発点であることは否定できないが、大国による
世界分割合意だと非難する声も大きい。[藤村瞬一]

 この会談以後の戦後体制をしばしばヤルタ体制と呼び、この会談以降、アメリカを中心とする
資本主義国陣営と、ソ連を中心とする共産主義国陣営の間で本格的な東西冷戦が開始されたと言われている。

トルーマン=ドクトリン
 アメリカのトルーマン大統領が共産圏に対する「封じ込め政策」を表明した指針。東西冷戦体制を固定化させた。アメリカ大統領トルーマンが議会に向けて出した宣言。第二次世界大戦後、ソ連の影響によって東欧諸国が共産化し、その脅威がギリシア・トルコに及んだことに脅威を感じたアメリカが、ソ連邦を中心とした共産圏を明確に敵視し、その封じ込めをはかる世界政策(封じ込め政策)をとることを宣言したもの。

ここまでの【まとめ】
 ヤルタ会談で、北方領土ソ連への帰属はこの時点で提示されていた。米国ソ連利益提示し、ソ連は実際に北方領土占領した。米国ソ連との密約による「国際政治問題としての北方領土問題」は、このとき生まれた。

 アメリカ対ロシア・中国の睨み合いで、日本国の自衛問題とは違う。

■プーチン露大統領の発言
 主権非軍事化
難題 2018年12月2日付毎日新聞

 安倍晋三首相は1日午後、アルゼンチンのブエノスアイレスで、ロシアのプーチン大統領と約45分間会談した。
 プーチン氏は、交渉の基礎となる日ソ共同宣言(1956年)で引き渡しが明記されている歯舞、色丹2島すら「宣言で、主権がどちらになるかは記されていない」と主張。主権を保持したまま、施政権だけを日本に渡す可能性をにじませている。
 さらに、ロシアは、引き渡した島に
日米地位協定に基づいて米軍基地が設置されることを警戒している。首相は北方領土を「非軍事化」する考えをプーチン氏に伝えたが、ロシアが「文書による担保」を求める可能性がある。日本は「米国は同意しない」(外務省関係者)とみている。 
 
会談に臨む
安倍晋三首相(左)
プーチン露大統領
ブエノスアイレスで
2018年12月1日
AP

プーチン大統領が安倍
 首相の「非軍事化発言」に乗せられることはない。

 

 核兵器開発の成功で米国は態度を一変

 1945年7月17日、米英ソ3国首脳(トルーマン、チャーチル、スターリン)はベルリン郊外のポツダムに集まり、第二次大戦の戦後処理について協議した。会談は8月2日まで続けられた。
 3強は激しい駆け引きをくり拡げた。●チャーチルは、戦後のヨーロッパからソ連の勢力を締め出そうと必死だった。●スターリンは、東ヨーロッパを「スターリンの庭」とするための情熱を傾けていた。そして●トルーマンは、近く予想される日本との最終戦にソ連を引っ張り込みたがっていた。
 だが、
会談開始直前(7月16日の夕方)に飛来した極秘電報「ニューメキシコ州アラモゴルドにおける原爆実験(トリニテイ実験)成功」が、トルーマンの立場を著しく強くした。もはやソ連の参戦は対日戦終結の必要条件ではなくなった。トルーマンは、戦後の世界を制するに足りる切り札を掌中にした。米ソ間には、早くも冷戦が忍び寄っていた。ヨーロッパの戦後処理をめぐる問題はほとんど合意に達しなかった。交渉よりも宣伝戦の性質を帯びたものに終わった。

 米国の魂胆
 まず、(1)実戦用の原子爆弾を準備する。その後で、(2)日本に「無条件降伏」勧告する。(3)日本は「無条件降伏」を飲むはずがないから、降伏勧告は無視される。その時点で
(4)原子爆弾を使う大義名分が立つ。
 そこで、
原子爆弾を日本に落とす。強気の日本も無条件降伏を飲むだろう。そうすれば、ソ連は満州を制圧するのが精一杯で、日本本土へ侵攻する時間はない。日ソ戦争の時間が短くなる分、
ソ連の取り分は減る。つまり原子爆弾はアメリカにとって一石二鳥だった。
 米国は原爆を使いたかった。当初は、ドイツに使う予定だったが、ドイツは2ヶ月前に降伏している。 だから、唯一残った敵「日本」に使うしかなかった。 
 

NO13 ポツダム宣言 Potsdam Declaration
 1945年7月26日 
「米英支三国共同宣言」
 アメリカ合衆国大統領、イギリス首相、中華民国主席の名において、大日本帝国(日本)に対して発せられた、
全日本軍無条件降伏等を求めた全13カ条からなる宣言である。正式には日本への降伏要求の最終宣言。「米英支三国共同宣言」ともいう。
 日本は1945年8月14日にこの宣言を受諾し、9月2日に調印・即時発効(降伏文書)に至って、第二次世界大戦(太平洋戦争)は終結した。ソビエト連邦は後から加わり追認した。
 ポツダム宣言は、この会談の期間中(1945年7月17日〜8月2日)、米国のトルーマン大統領、イギリスのチャーチル首相と中華民国の蒋介石国民政府主席の共同声明として発表されたものである。
 
トルーマンはイギリスの修正を全面的に受け入れ、声明発出の準備を行うとともに原爆投下命令承認した。かくして「ポツダム宣言」は、ソ連側に何の口を差し挟むことができないうちに、7月26日、突如として全世界に向けて発信された。
 原子爆弾を手にした米国は、ソ連との覇権争いは勝ったも同然だった。ポツダムから帰る途中、彼はおつきの将校にこう語った。 「この
強力新兵器人類史上初大量殺戮兵器さえあれば、ソ連などわれわれには必要ない。もはやどこの国にも頼る必要はないのだ」

 
宣言文大部分アメリカによって作成され、イギリスが若干の修正を行なったものであり、中華民国を含む他の連合国は内容に関与していない。英国代表として会談に出席していたチャーチル首相は当時帰国しており、蒋介石を含む中華民国のメンバーはそもそも会談に参加していなかったため、トルーマン自身を含めた3人分署名を行った(蒋介石とは無線で了承を得て署名した)。ソ連署名していない 。ソ連は8月8日の対日宣戦布告の後に署名した。

 チャーチル首相の修正案の回答:「日本国民」→「日本」「日本政府」に再度変更すること、民主化の主体を「日本政府」と明記すること、占領の対象を「日本領土」→「日本領土の諸地点」に変更すること、の三点だった。

 原爆実験(トリニテイ実験)の結果は、ポツダム会談でソビエト連邦との交渉のカードとして使われた。しかしトルーマンがスターリンに非公式に原子爆弾のことを伝えた際に、彼が反応を示さなかったことにいささかショックを受けた。既にアメリカの計画について
諜報員を通じてよく知っていたスターリンは、8月6日の広島市の原爆(リトルボーイ)投下と8月9日の長崎市の原爆(ファットマン)投下の間の、8月8日に対日参戦に漕ぎ着け、まんまと北方領土を占領することに成功した。
日本の降伏のための定義および規約
 1945年7月26日、
ポツダム宣言
  1. 我々合衆国大統領、中華民国政府主席、及び英国総理大臣は、我々の数億の国民を代表し協議の上、日本国に対し戦争を終結する機会を与えることで一致した。
  2. 3ヶ国の軍隊は増強を受け、日本に最後の打撃を加える用意を既に整えた。この軍事力は、日本国の抵抗が止まるまで、同国に対する戦争を遂行する一切の連合国の決意により支持され且つ鼓舞される。
  3. 世界の自由な人民に支持されたこの軍事力行使は、ナチス・ドイツに対して適用された場合にドイツドイツ軍に完全に破壊をもたらしたことが示すように、日本と日本軍が完全に壊滅することを意味する。
  4. 日本が、無分別な打算により自国を滅亡の淵に追い詰めた軍国主義者の指導を引き続き受けるか、それとも理性の道を歩むかを選ぶべき時が到来したのだ。
  5. 我々の条件は以下の条文で示すとおりであり、これについては譲歩せず、我々がここから外れることも又ない。執行の遅れは認めない。
  6. 日本国民いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力を永久に除去する。無責任な軍国主義が世界から駆逐されるまでは、平和安全正義の新秩序も現れ得ないからである。
  7. 第6条の新秩序が確立され、戦争能力が失われたことが確認される時までは、我々の指示する基本的目的の達成を確保するため、日本国領域内の諸地点は占領されるべきものとする。
  8. カイロ宣言の条項は履行されるべきであり、又日本国の主権は本州北海道九州及び四国ならびに我々の決定する諸小島に限られなければならない。
  9. 日本軍は武装解除された後、各自の家庭に帰り平和・生産的に生活出来る機会を与えられる。
  10. 我々の意志は日本人を民族として奴隷化しまた日本国民を滅亡させようとするものではないが、日本における捕虜虐待を含む一切の戦争犯罪人処罰されるべきである。日本政府は日本国国民における民主主義的傾向の復活を強化し、これを妨げるあらゆる障碍は排除するべきであり、言論宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されるべきである。
  11. 日本は経済復興し、課された賠償の義務を履行するための生産手段、戦争再軍備に関わらないものが保有出来る。また将来的には国際貿易に復帰が許可される。
  12. 日本国国民が自由に表明した意志による平和的傾向の責任ある政府の樹立を求める。この項目並びにすでに記載した条件達成された場合に占領軍撤退するべきである。
  13. 我々は日本政府が全日本軍の即時無条件降伏を宣言し、またその行動について日本政府が十分に保障することを求める。これ以外の選択肢は迅速且つ完全なる壊滅があるのみである。

 
『ポツダム宣言』公然無視して、日本領土占領しているのは米国(沖縄)ロシア(北方領土)である。
 戦争
とは侵略戦争のことで、自衛防衛当然権利であり、戦争ではない。世界共通認識である。正当防衛暴力(犯罪)という者はいない。

 『ポツダム宣言』を公然と無視し、国際法に違反し、違反し続けている国はどの国か〜〜ポツダム宣言10 Author:しばやん    http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-300.html

日本人に真実から目を背かせる
トルーマンの
3S政策
sports screen sex

 アメリカ大統領「トルーマン」が、敗戦国の日本を奴隷化する為に、用いたのは、3S政策といって、「スポーツ、スクリーン、セックス」、これに国民の快楽を向けさせて、政治に関心を向けさせない政策、まさに日本人の愚民化政策でした。
 「猿(日本人)を
『虚実の自由』という名の檻で、我々が飼うのだ。方法は、彼らに多少の贅沢さと便利さを与えるだけで良い。そして、スポーツ、スクリーン、セックス(3S)を解放させる。これで、真実から目を背けさせることができる。猿は、我々の家畜だからだ。家畜が主人である我々のために貢献するのは、当然のことである。そのために、我々の財産でもある家畜の肉体は、長寿にさせなければならない。(化学物質などで)病気にさせて、しかも生かし続けるのだ。これによって、我々は収穫を得続けるだろう。これは勝戦国権限でもある」
 以上が、トルーマンの発言です。終戦時のアメリカ大統領の発言です。

●【日本人はフォアグラのカモ】●
 この話はフォアグラの生産過程にとても似ています。フォアグラはカモの肝臓です。メスを殺し、オスだけを強制給餌し、身動きの取れない囲いの中で、10kgのエサを、無理やり食べさせ、わざと病気にし、脂肪肝にさせます。その虐待で苦痛と病気で死にます。

 成鳥になるまでの3か月間は屋外で暮らしますが、ある日、突然、上記の画像ように、身動きを奪われ、強制給餌の虐待がはじまるのです。そして人間の贅沢のために殺されます。トルーマンの発想は、これと同じです。私たち日本人はフォアグラのカモと何も違いがありません。野獣化計画は現代も継続中で、トルーマンの残したこの言葉は、アメリカ思惑を解く上で重要です。

●【人間獣化計画19か条】●
 
3S政策トルーマンが考えた政策ではありません。
第一次大戦後のドイツを狙って、ユダヤ人が作った政策です。
 3Sを含み19項目あります。(3S政策は、その一部なのです。)では、その全容に迫ります。
 愛国心の消滅、悪平等主義、拝金主義、自由の過度の追及、道徳軽視、義理人情抹殺、3S政策事なかれ主義(←ここ)俗吏属僚横行、否定消極主義、無気力、無信念、自然主義、刹那主義、尖端主義、国粋否定、享楽主義、恋愛至上主義(注 結婚の意味消滅)、家族制度破壊、民族的歴史観否定
 これは、ワイマール憲法の中の「人間を獣化させると指摘された19か条」をまとめたものです。日本の憲法は、憲法9条を除き、ワイマール憲法そのものです。

●【憲法改正・危ない目的】●
 「アメリカが押し付けたものだから」と言って、憲法を変えたがる人がいます。しかし、憲法9条は、日本独自です。当時の国民は、9条があったからこそ、この憲法を愛してきたのです。ところが、自民党の草案を見ると、むしろ、憲法9条主軸を変えようとしています。おかしいですね??・・・そうです!改憲理由は「押し付け」だからではありません。戦争放棄の為の獣化政策(性質)を、国体主義の為の獣化政策(性質)に、こっそり、書き換えたい、これが憲法改正の狙いです。実に姑息です。

 太平洋憲章第8項:武力行使の放棄と、恒久的な一般的安全保障体制の確立」が、日本国憲法の基本理念で、今になると、アメリカの軍需産業(戦争ビジネス)の邪魔だから、欺瞞・傲慢隠蔽工作で、アメリカから安倍戦犯ロボット総理に発せられた命令で、改憲理由は「押しつけ」ではなく、「アメリカの勝手な金儲けの都合」である。
 
武力行使放棄は単に日本国一国にのみ求められたものではなく、国際連合加盟国(国際連合憲章に従って「国際連合における加盟国の地位」を得た国家)193カ国(2017年10月現在)に当てはまる世界平和の理念である。
 いずれにしても、憲法改正はアメリカの意向であり、
日本は必要としない安倍総理はアメリカの「憲法改正!お叫びロボット」で、肝心の憲法改正理由の説明責任はインプットされていない(冨嶋)。
 

●【歓迎された獣化政策】●
 アメリカ(ユダヤ人)の作った人間獣化計画は、当時、日本に大歓迎されました。アメリカ人も、また快楽に明け暮れ戦争国家で富を築いていたので、拝金主義を形成され、煌めく世界で、政治に関心を持つことなく、戦争国家に従っていたのです。快楽におぼれた人間という動物は、それを手に入れる、金稼ぎに必死で、大切なこと(政治)を追求する頭脳がごっそり、欠落させられていくのです。周りで何かが奪われて消えても、快楽さえあれば、幸せだったのです。分かり易い快楽に溢れるアメリカに、日本人はすっかり憧れてしまい、日本の文化を喜んで捨てたのです。これが愚民化の全ての始まりです。

●【憲法改正の目的は、奴隷】●
 「アメリカの属国にならねば、日本は生きられない」と徹底して、岸信介は孫の晋三に叩き込みました。生きられないのは戦犯だった(冨嶋)。その安倍晋三が日本の自立など望むわけがありません!一部の特権階級だけが守られる。卑しい根性に他なりません。これが、安倍の唱える「美しい日本」の正体です。私たちのことをフォアグラのカモとしか考えません。人間ではありません。http://ameblo.jp/wayuki17/entry-12181018673.html

 この著者は「ジャーナリストのように政治を批判し意見するだけなら、勉強すれば、誰でも、池上彰レベルになれます。でも、有権者の私たちは、池上彰レベルで終わるべきでありません。その先にある【真実を見抜く目】をゴールにしてこそ、意味があります。私たち有権者の肩には、その一票に、命と未来が掛かります。私達が、ゼロから政治を学ぼうと思ったら、まず最初、知るべきことは日本歴史です。人と国の歴史の蓄積が分かると、世界情勢を読み解くカギになります。明治時代から日本を軸に世界に少しずつ広げていくのです。政治8割歴史です。」と言っている。→歴史をねじ曲げる歴史教科書問題は戦犯の陰謀である(冨嶋)。

 11月に四谷のイタリアンレストランで大学のクラス会があり、雑談の中で1人が「中国とアメリカと戦って両方の国に勝ったのは、世界でベトナムだけだ」と言った。私は「ではベトナムは共産主義、資本主義のどちらですか」と問うた。「今はもう共産主義、資本主義とは言わない。古い。今は金満だ」。そう言われると、何となく、第一次・第二次世界大戦がわかるような気がしました。アメリカにとって戦争は殺人ビジネスの金儲けである。



● 朝鮮戦争 アメリカが、密約と原子爆弾で、世界を分断し、世界平和(共存共栄)を破壊した。人類滅亡の危険すらある。アメリカが戦争ビジネスを廃業すれば、世界は平和になる。 

 戦争は本当に馬鹿らしい。そのことがよくわかるのが朝鮮戦争です。勝っても負けても、犠牲になるのは国民です。殺されるのは国民です。

 朝鮮戦争 1950年6月25日〜1953年7月27日休戦状態



出典:フリー百科事典『ウイーキペディア(Wikipedia)』
1948年
に成立した
■大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で生じた朝鮮半島主権巡る国際紛争1950年6月25日金日成率いる北朝鮮が中華人民共和国毛沢東ソビエト連邦ヨシフ・スターリン の同意と支援を受けて、事実上の国境線と化していた38度線を越えて韓国に侵略を仕掛けたことによって勃発した

朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国の両当事国みならず、東西冷戦の文脈の中で、●「西側自由主義陣営諸国を中心とした国連軍」東側の支援を受ける中国人民志願軍が交戦勢力として参戦し、3年間に及ぶ戦争は朝鮮半島全土を戦場と化して荒廃させた。1953年7月27日に国連軍と中朝連合軍は朝鮮戦争休戦協定に署名し休戦に至ったが、北緯38度線付近の休戦時の前線が軍事境界線として認識され、朝鮮半島は■北部朝鮮民主主義人民共和国■南部大韓民国の南北二国に分断された。

終戦ではなく休戦状態であるため、名目上は現在戦時中であり、「南北朝鮮の両国間」及び「北朝鮮とアメリカ合衆国との」に平和条約は締結されておらず、緊張状態は解消されていない。

概説

第二次世界大戦中の1943年11月に、連合国カイロ宣言に於いて、1910年より日本領となっていた朝鮮半島一帯を、大戦終結後は■自由独立の国とすることを発表し、1945年2月に開催されたヤルタ会談極東秘密協定にて米英中ソ四ヶ国による朝鮮の信託統治が合意された

1945年8月8日よりソ連対日参戦により満洲国に侵攻したソ連軍赤軍)は8月13日当時日本領だった朝鮮の清津市に上陸していたが、同じく連合国を構成していたアメリカ合衆国は、ハリー・S・トルーマン反共主義の下で、ソ連軍に朝鮮半島全体が掌握されることを恐れ、ソ連に対し朝鮮半島の南北分割占領提案。ソ連はこの提案を受け入れ、朝鮮半島は北緯38度線を境に「北部ソ連軍」「南部アメリカ軍」分割占領された。

1945年8月15日日本ポツダム宣言を受諾し連合国に降伏、朝鮮は解放された。しかし●1945年8月24日平壌に進駐したソ連軍は朝鮮半島北部を占領、既存の朝鮮建国準備委員会を通じた間接統治を実施し、●朝鮮半島南部には1945年9月8日1945年仁川に上陸したアメリカ軍朝鮮建国準備委員会を解体した後、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁による直接統治を実施、朝鮮半島は米ソ両国によって南北分断されたまま、朝鮮半島内で抗日運動を行っていた人士や海外から帰国した左翼右翼が衝突する連合国による軍政を迎えた

その後、米ソ対立背景1948年8月15日南部大韓民国が建国され、1948年9月9日に残余の北部朝鮮民主主義人民共和国が建国された。南北の軍事バランスは、ソ連および1949年建国の中華人民共和国の支援を受けた北側が優勢だった。武力統一支配(赤化統一)を目指す金日成率いる北朝鮮1950年6月25日毛沢東ヨシフ・スターリンの同意と支援を受けて、国境の38度線を越えて侵略戦争を起こした

侵略を受けた韓国側には進駐していたアメリカ軍を中心に、イギリスフィリピンオーストラリアカナダベルギータイ王国などの国連加盟国で構成された国連軍(国連は、国連軍司令部の設置や国連旗の使用を許可している。しかし、国連憲章第7章に規定された手順とは異なる派兵のため、厳密には「国連軍」ではなく、「多国籍軍」の一つとなっていた。)が参戦、一方の北朝鮮側には抗美援朝義勇軍(実態は金日成に韓国侵略を許可した中国人民解放軍)が加わり、ソ連は武器調達訓練などで支援した。

第二次世界大戦終戦時の朝鮮の政治状況

8月9日に行われたソ連軍の日本と満州国への侵略に伴う、日本領の朝鮮半島への侵攻という事態に直面し、アメリカはソ連に38度線での分割占領案を提示した。この境界線はアメリカ陸軍のディーン・ラスクらによって30分間策定されたものであり、アメリカ軍占領域にその後大韓民国の首都ソウルとなる京城府が含まれる事も考慮されていた。

■ソ連軍はアメリカによる朝鮮半島分割占領案に1945年8月16日合意し、翌17日には一般命令第一号として、38度線以北の日本軍はソ連軍(赤軍)に、以南はアメリカ軍に降伏させることが通知された。■合意を受けてソ連軍は19045年8月16日以降に朝鮮半島内への本格的侵攻を開始、27日には38度線付近の都市新義州に至った

日本統治からの突然の「解放」は、連合国軍により「与えられた解放」であった朝鮮人が自らの力で独立を勝ち取ることができず、独立運動の諸派が解放後、それも数年間にわたり激しく対立し続けたことは南北分断にも少なからず影響し、その後の朝鮮の運命を決定づけた

  アメリカは常に朝鮮問題は「東西対立の一部」としてみなし、対立となる要素を国内からアメリカが主導して排除することに腐心した。一方ソ連は「朝鮮人自身の南北問題」とみなし、ソ連と主義を一にする朝鮮人主導者を立てて統一を支援した。

分断の固定化と対立

建国後、李承晩大統領は「北進統一」を、金日成首相は「国土完整」を主張し、共に政治体制の異なる相手国を屈服させることによる朝鮮半島統一を訴えた。

その後、金日成は李承晩を倒し統一政府樹立のため、ソ連の指導者ヨシフ・スターリンに南半部への武力侵攻の許可を求めたが、アメリカとの直接戦争を望まないスターリンは許可せず、12月にソ連軍は朝鮮半島から軍事顧問団を残し撤退した。1949年6月には、アメリカ軍も軍政を解き、司令部は軍事顧問団を残し撤収した。

同じ頃、地続きの中国大陸ではソ連の支援を受けていた毛沢東主席率いる中国共産党国共内戦に勝利し、1949年10月1日中華人民共和国が建国された。一方、アメリカからの支援が途絶え敗北した中国国民党蒋介石総統率いる中華民国台湾に脱出した(台湾国民政府)。親中派のフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領率いるアメリカは、蒋介石率いる国民党政府を第二次大戦中に熱心に支援していたが、1945年にルーズヴェルトが死去するとともに大統領になったハリー・S・トルーマンは米国が仲介した双十協定ジョージ・マーシャルによる共産党との調停を国民党は破ったと看做して支援を打ち切り、1950年1月5日には中国人民解放軍が国民党を追撃しても台湾に介入しないとする声明まで発表して台湾に逃げた国民党を見放した。

アメリカの誤算

1950年1月12日、アメリカ政府のディーン・アチソン国務長官が、「アメリカが責任を持つ防衛ラインは、フィリピン - 沖縄 - 日本 - アリューシャン列島までである。それ以外の地域は責任を持たない」と発言(「アチソンライン」)し、台湾インドシナなどとともに朝鮮半島には言及がなかった。またアチソンは、広く知られる上記の発言のあと「アメリカの安全保障に関するかぎり、これらの地域への軍事的攻撃について何らかの保障ができる者はいない。そのような攻撃が行われた際には(略)最初は攻撃された人々に頼るしかないのだ」と続け、「彼らが断固として戦うならば国連憲章に基づき国連の裁定に訴えることができるだろう」と、最後をあいまいに結んだ。

また、極東地域のアメリカ軍を統括していた連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーは占領下の日本統治に専念し、1945年8月に着任して以降、朝鮮半島に足を運んだのは1回のみだった。

中国大陸が共産化しても台湾不介入声明まで出した、トルーマン政権の対中政策を観察していた金日成は朝鮮半島にもこれを当てはめて「アメリカによるの南半部(韓国)放棄」を推察した。

スターリンによる侵攻容認

これらの状況の変化を受け、同年(1950年)3月にソ連を訪問して改めて開戦許可を求めた金日成と朴憲永に対し、スターリンは毛沢東の許可を得ることを条件に南半部への侵攻を容認し、同時にソ連軍の軍事顧問団が南侵計画である「先制打撃計画」を立案した。また12月にはモスクワで、T34戦車数百輛をはじめ大量のソ連製火器の供与、ソ連軍に所属する朝鮮系軍人の朝鮮人民軍移籍などの協定が結ばれた。

これを受けて、同年(1950年)5月に中華人民共和国を訪問した金日成は、北朝鮮による南半部への侵攻中華人民共和国援助する」という約束を取り付けた。

北朝鮮の奇襲攻撃

1950年6月25日午前4時(韓国時間)に、北緯38度線にて北朝鮮軍の砲撃が開始された。宣戦布告は行われなかった。30分後には朝鮮人民軍が暗号命令「暴風」(ポップン)を受けて、約10万兵力が38度線を越える。また、東海岸道においては、ゲリラ部隊が工作船団に分乗して後方に上陸し、韓国軍を分断していた。朝鮮人民軍の動向情報を持ちながら、状況を楽観視していたアメリカを初めとする西側諸国は衝撃を受けた。

前線の韓国軍では、一部の部隊が独断で警戒態勢をとっていたのみであり、農繁期だったこともあって、大部分の部隊は警戒態勢を解除していた。また、首都ソウルでは、前日に陸軍庁舎落成式の宴会があり、軍幹部の登庁が遅れて指揮系統が混乱していた。このため李承晩への報告は、奇襲後6時間経ってからであった。さらに、韓国軍には対戦車装備がなく、ソ連から貸与された当時の最新戦車T-34戦車を中核にした北朝鮮軍の攻撃には全く歯が立たないまま、各所韓国軍敗退した。

連合国軍総司令官マッカーサーは日本に居り、日本の占領統治に集中していた為、朝鮮半島の緊迫した情勢を把握していなかった。奇襲砲撃開始を知ったのは1時間余り経った25日午前5時数分過ぎだった。

トルーマン大統領も、ミズーリ州にて砲撃から10時間も過ぎた現地時間24日午後10時に報告を受けた。ただちに国連安全保障理事会の開会措置をとるように命じてワシントンD.C.に帰還したが、トルーマンの関心は、当時冷戦の最前線とみなされていたヨーロッパへ向いていた。まずはアメリカ人の韓国からの退去、および韓国軍への武器弾薬の補給を命じただけで、すぐには軍事介入を命じなかった。2日後には台湾不介入声明を撤回して海軍第7艦隊中立化を名目台湾海峡に出動された。

国連の非難決議

1950年6月27日に開催された安保理は、北朝鮮侵略者と認定、“その行動を非難し、軍事行動の停止と軍の撤退を求める”「国際連合安全保障理事会決議82」を賛成9:反対0:棄権1の全会一致で採択した。拒否権を持ち北朝鮮を擁護する立場にあったソ連は、当時国際連合において「中国」を代表していた中華民国中国国民党政府と、前年に誕生した中国共産党の間の代表権を巡る争いに対する国際連合の立場に抗議し、この年の1月から安全保障理事会を欠席していた。

しかしスターリンには、この安保理決議が通過するのを黙認することで、アメリカ合衆国が中国や朝鮮半島に引きこまれている間に、ヨーロッパにおける共産主義を強化するための「時間稼ぎにつなげる目論見」があった。これらのことは1950年8月27日付のスターリンからチェコスロバキアクレメント・ゴットワルト大統領に宛てられた極秘電文によって、現在では明らかになっている

韓国軍の敗退

南北の軍事バランスに差がある中で、北朝鮮軍の奇襲攻撃を受けた韓国軍は絶望的な戦いを続けていたが、1945年6月27日に李承晩大統領による保導連盟員南朝鮮労働党関係者の処刑命令が出された(保導連盟事件同日(1950年6月27日)、韓国政府は首都ソウルを放棄し、水原に遷都。6月28日ソウルは北朝鮮軍の攻撃により市民に多くの犠牲者を出した末に陥落した。この時、命令系統が混乱した韓国軍は漢江にかかる橋を避難民ごと爆破した(漢江人道橋爆破事件)。これにより漢江以北には多数の軍部隊や住民が取り残され、自力で脱出する事になる。また、この失敗により韓国軍の士気も下がり、全滅が現実のものと感じられる状況になった。

韓国軍の緒戦の敗因には、経験と装備の不足がある。北朝鮮軍は中国共産党軍やソ連軍に属していた朝鮮族部隊をそのまま北朝鮮軍師団に改編した部隊など練度が高かったのに対し、韓国軍は将校の多くは日本軍出身者だったが、建国後に新たに編成された師団のみで各部隊毎の訓練は完了していなかった。

また、来るべき戦争に備えて訓練、準備を行っていた北朝鮮軍は、装備や戦術がソ連流統一されていたのに対して、韓国軍は戦術が日本流のものとアメリカ流のものが混在し、装備は旧日本軍の九九式小銃などが中心であり、米韓軍事協定の制約により、重火器はわずかしか支給されず戦車は1輌も存在しなかった。また、航空機も、第二次世界大戦時に使用されていた旧式のアメリカ製観測機(L-4、L-5)とカナダから購入した複座の練習機(T-6)が少数あるのみだった。その結果、陸軍はまたたく間に潰滅し敗走を続け、貧弱な空軍も緒戦における北朝鮮軍のイリューシン Il-10攻撃機などによる空襲で撃破されていった。

アメリカ軍の出動

マッカーサーは1950年6月29日東京羽田空港より専用機のダグラスC-54「バターン号」で水原に入り、自動車で前線を視察したが、敗走する韓国軍兵士と負傷者でひしめいていた。マッカーサーは派兵を韓国軍と約束し、その日の午後5時に本拠としていた東京へ戻った。なおマッカーサーはその後も韓国内にその拠点を置くことはなく、東京を拠点に専用機で戦線へ出向き、日帰りとんぼ返りするという指揮方式を取り続けた。

マッカーサーは本国の陸軍参謀総長に在日米軍4個師団の内、2個師団を投入するように進言したが、大統領の承認は得ていなかった。さらにマッカーサーは、本国からの回答が届く前に、ボーイングB-29大型爆撃機を日本の基地から発進させ、北朝鮮が占領した金浦空港空襲した。トルーマンはマッカーサーに、1個師団のみ派兵を許可した。

この時、アメリカ陸軍の総兵力は59万2000人だったが、これは第二次世界大戦参戦時の1941年12月の半分に過ぎなかった。第二次世界大戦に参戦した兵士はほとんど帰国、退役し、新たに徴兵された多くの兵士は実戦を経験していなかった。

派遣されたアメリカ軍先遣隊1950年7月4日に北朝鮮軍と交戦を開始したが1950年7月5日には敗北した(烏山の戦い)。

国連軍の苦戦

1950年6月27日国連安保理は北朝鮮弾劾・武力制裁決議に基づき韓国を防衛するため、必要な援助を韓国に与えるよう加盟国に勧告し、7月7日にはアメリカ軍25万人を中心として、日本占領のために西日本に駐留していたイギリスやオーストラリア、ニュージーランドなどのイギリス連邦占領軍を含むイギリス連邦諸国、さらにタイ王国コロンビアベルギーなども加わった国連軍を結成した。なお●この国連軍に常任理事国のソ連と中華民国は含まれていない。

準備不足で人員、装備に劣る国連軍は各地で敗北を続け、アメリカ軍大田の戦い大敗を喫すると、国連軍は最後の砦、洛東江戦線にまで追い詰められた。。

また、北朝鮮軍によりアメリカ兵捕虜虐殺される「303高地の虐殺」が起きた

  朝鮮戦争初期の1950年8月17日に、韓国慶尚北道漆谷郡倭館邑ウェグァンゆう)の丘(303高地)で行われた戦争犯罪事件である。釜山橋頭堡の戦いの作戦行動中に朝鮮人民軍(北朝鮮軍)に捕らえられたアメリカ陸軍捕虜41人が、2日後に、北朝鮮軍の兵士によって機関銃で銃殺された。

この頃北朝鮮軍は、不足し始めた兵力を現地から徴集した兵で補い人民義勇軍を組織化し(離散家族発生の一因となった)、再三に渡り大攻勢を繰り広げる。釜山陥落危惧される情勢となり、韓国政府は日本の山口県に6万人規模の人員を収用できる亡命政府を建設しようとし、日本側に準備要請を行っている。金日成は「解放記念日」の1950年8月15日までに国連軍を朝鮮半島から放逐し統一するつもりであったが、国連軍は「韓国にダンケルクはない」と釜山橋頭堡の戦いで撤退を拒否して徹底抗戦をして、釜山周辺においてようやく北朝鮮軍進撃めた。

仁川(インチョン)上陸作戦

マッカーサーは新たに第10軍を編成し、数度に渡る牽制の後の1950年9月15日アメリカ第1海兵師団および第7歩兵師団、さらに少数の韓国人道案内からなる約7万人をソウル近郊の仁川に上陸させる仁川上陸作戦(クロマイト作戦)に成功した。

また、仁川上陸作戦に連動したスレッジハンマー作戦で、アメリカ軍イギリス軍韓国軍を中心とした国連軍大規模反攻が開始されると、戦局は一変した。

補給部隊が貧弱であった北朝鮮軍は、38度線から300km以上離れた釜山周辺での戦闘で大きく消耗し、さらに補給線が分断していたこともあり敗走を続け、1950年9月28日国連軍ソウル奪還し、9月29日には李承晩ら大韓民国の首脳もソウルに帰還した。

国連軍の38度線越境

1950年10月1日、韓国軍は開戦以前から「北進統一」を掲げ、「祖国統一の好機」と踏んでいた。李承晩大統領は丁一権参謀総長を呼び「38度線には何か標でもあるのか?」と尋ねると、李の意図を理解した丁は「38度線は地図に引かれた単なる線です」と答えた。李は我が意を得たとばかりに丁に『ただちに軍を率いて北進すべし』という大統領命令書を渡した。この命令については事前にマッカーサーへの相談はなされていなかった。

トルーマンは、仁川の成功で発言力が増していたマッカーサーの要求に38度線突破する事を承認し、1950年9月27日にマッカーサーに伝えていた。しかし条件が付されており『ソ連や中国の大部隊が北朝鮮に入っていない場合』『ソ連と中国が参戦する意図の発表がない場合』『朝鮮における我々の作戦が反撃される恐れのない場合』に限るとされた。ところがマッカーサーは、トルーマンのこれらの条件を無視し、韓国軍の独断専行も特に問題とは考えなかった。1950年10月7日にはアメリカ軍の第1騎兵師団がマッカーサーの命により38度線を越えて進撃を開始した。また国連でも、ソ連が拒否権を行使できる安全保障理事会を避け、10月7日にアメリカ国務省の発案で総会により、全朝鮮に「統一され、独立した民主政府」を樹立することが国連の目的とする決議が賛成47票、反対5票で採択され、マッカーサーの行動にお墨付きを与えた

1950年10月1日、韓国軍の進撃に対し中華人民共和国の国務院総理(首相)の周恩来は中華人民共和国建国一周年のこの日に「中国人民は外国の侵略を容認するつもりはなく、帝国主義者どもがほしいままに隣接の領土に侵入した場合、これを放置するつもりはない。」とする明白な警告の声明を発表したが、ワシントンはこの声明を単なる脅しととって無視した
しかし
毛沢東はかなり早い時期、それもまだ北朝鮮軍が有利に戦争を進めていた7月の段階で中国の戦争介入は不可避と考えており、中朝国境に中国の最精鋭部隊であった第4野戦軍から3個兵団を抽出し、東北辺国防軍を創設し準備を進めていた。仁川上陸作戦についても、その可能性を予測し金日成に警告を与えていたが、金日成は警告を無視したため、北朝鮮軍は仁川への国連軍の上陸作戦を阻止できず、38度線突破を許す事になったことに幻滅していた
中国からの警告は外交ルートを通じてもなされている。インドの中国大使カヴァーラム・バニッカーは10月2日の深夜に周恩来の自宅に呼ばれ、周より「もしアメリカ軍が38度線を越えたら、中国は参戦せざるを得ない」と伝えられた。バニッカーは10月3日深夜1時30分にインド本国に報告し、朝にはイギリス首相にも伝えられ、ほどなくアメリカ国務省にも届いたが、国務長官のディーン・アチソンはバニッカーを信用しておらずこの情報が活かされる事はなかったが、実際は正確な情報であった

中国が戦争介入の準備を進めている最中の1950年10月15日、トラック島において、トルーマンマッカーサーによる会談が行われた。この会談は中間選挙が近づいて支持率低迷に悩むトルーマンがマッカーサー人気にあやかろうとする性質のもので、あまり重要な話はなされなかったが、トルーマンがバニッカーからの情報を聞いて以来気になっていた中国の参戦の可能性について質問すると、マッカーサー「ほとんどありえません。」と答え、さらに「最初の1〜2ヶ月で参戦していたらそれは決定的だったでしょう。しかし我々はもはや彼らの参戦を恐れていません」と自信をもって回答している。しかしこのマッカーサーの予想は大きく外れ、後にこの発言がマッカーサーに災いをもたらす事になった。

その間に、アメリカ軍を中心とした国連軍は■中国軍派遣準備が進んでいたことに気付かずに、敗走する北朝鮮軍を追いなおも進撃を続け、1950年10月10日に韓国軍が軍港である元山市を激しい市街戦の上に奪取した。

1950年10月20日にはアメリカ第1騎兵師団と韓国第1師団が北朝鮮の臨時首都の平壌(1948年から1972年まで法的効力を有した朝鮮民主主義人民共和国憲法ではソウルを法的な首都に定めていた)を制圧した。マッカーサーも占領後間もなく航空機で平壌入りしたが、航空機を降り立った際に「私を出迎える要人はいないのか?出っ歯のキムはどこにいる」という冗談を飛ばす程得意満面であった。平壌を脱出していた金日成は中国の通化に事実上亡命し、その息子と娘である金正日金敬姫兄妹も中国に疎開して吉林省の中国人学校に通学していた
マッカーサーは平壌入り前の1950年10月17日には、中朝国境から40〜60マイル離れていた線を決勝点と決めたが、数日もしない内にその決勝点はあくまでも中間点であり、更に国境に向け進む様に各司令官に伝達した。国務省からは、国境付近では韓国軍以外は使用するなと指示されていたが、それに反する命令であった。
この頃の国連軍は、至る所で相互の支援も、地上偵察の相互連絡の維持すらできず、多くの異なったルートを辿りバラバラに鴨緑江を目指していた。また補給港も遠ざかり、補給路は狭く、険しく、曲がりくねっており補給を困難にさせていた。しかしマッカーサーは指揮を東京から行っており、朝鮮半島に来ても日帰りで東京に帰り宿泊する事はなかった為、見た事のない敵地の地勢を正しく評価できていなかった

その様な過酷な環境下で先行していた林富澤大佐率いる韓国陸軍第6師団第7連隊は1950年10月26日に中朝国境の鴨緑江に達し、「統一間近」とまで騒がれた。

日本の参加と日本特別掃海隊

日本からは、日本を占領下においていた連合国軍の要請(事実上命令)を受けて、特別掃海隊として派遣された海上保安官や、海上輸送や港湾荷役に従事する民間人など、総計で8,000人以上の日本人が朝鮮半島およびその周辺海域で活動し、開戦からの半年に限っても56名が命を落とした

中国人民志願軍参戦

金日成は人民軍が崩壊の危機に瀕するとまずソ連のスターリンへ戦争への本格介入を要請したが、1950年9月21日にソ連が直接支援は出せないので、中国に援助を要請する様に提案があった。諦められない金日成はソ連大使テレンティ・シトゥイコフに再度直接ソ連軍の部隊派遣を要請すると共に、スターリンにも書簡を送っている。しかし返事は変わらず、10月1日にスターリン自身が金日成に「中国説得して介入を求めるのが一番いいだろう」と答えてきた

当時スターリンは、「中華人民共和国を参戦させる事で、米中朝鮮半島足止めされる状況を作る」という戦略を立てていた。

ソ連はアメリカを刺激することを恐れ表立った軍事的支援は行わず、「中ソ友好同盟相互援助条約」に基づき、同盟関係にある中華人民共和国に肩代わりを求めていた。毛沢東主席と数名の最高幹部は参戦を主張していたが、林彪や残りの多くの幹部は反対だった。反対理由としては次のようなものがあった。

  1. 中華人民共和国の所有する武器では、ソ連の援助を得たとしても、アメリカの近代化された武器には勝ち目が無い
  2. 長年にわたる国共内戦により国内の財政も逼迫しており、新政権の基盤も確立されていないため、幹部、一般兵士たちの間では戦争回避を願う空気が強い
  3. 1949年10月1日の中華人民共和国建国後も、「大陸反攻」を唱える中国国民党蒋介石総統による「台湾国民政府」の支配下に置かれた台湾の「解放」や、チベットの「解放」など、「国内問題」の解決を優先すべき

しかし、1950年10月2日に金日成よりの毛沢東宛ての部隊派遣要請の手紙を受け取ると、既に介入は不可避と考えていた毛沢東は、これで参戦決意した。 アメリカとの全面衝突によって内戦に勝利したばかりの中国にまで戦線を拡大されることを防ぐため、中国人民解放軍を「義勇兵」として派遣することとした。中国参戦1950年10月5日中央政治局で正式に決定された。抗美援朝義勇軍は、ソ連から支給された最新鋭の武器のみならず、第二次世界大戦時にソ連やアメリカなどから支給された武器と、戦後に日本軍の武装解除により接収した武器を使用し、最前線だけで20万人規模、後方待機も含めると100万人規模の大部隊であった。

中朝国境付近に集結した中国軍は1950年10月19日から隠密裏に鴨緑江を渡り、進撃を開始した。中国軍は夜間に山間部を進軍したため、国連軍の空からの偵察の目を欺くことに成功した。

それに対しアメリカ軍は、仁川上陸作戦での情報収集でも活躍したユージン・クラーク海軍大尉ら多数の情報部員を北朝鮮内に送り込んでいた。1950年10月25日クラークより30万名の中国兵が鴨緑江を渡河したという情報を報告があり、数日内に同様な情報が他の複数の情報部員からも報告されたが、トルーマンは、CIAがこの情報も含めて総合的に検討した結果として、ソ連が全世界戦争を決意しない限り中国も大規模介入はしないとの分析を信じており安心しきっていた。●マッカーサーは鴨緑江を越えて北朝鮮に進撃した中国兵は3万名以下と判断し、鴨緑江に向けて国連軍の進撃を継続させている

前線からはその後も次々と中国軍大部隊の集結に関する報告が寄せられたが、マッカーサーはこの増大する証拠を承認するのを躊躇った。前線部隊は不吉な前兆を察知しており、第1騎兵師団師団長は先行している第8連隊の撤退の許可を司令部に求めたが許可されなかった。そしてついに1950年11月1日中国軍大規模攻勢開始韓国軍第6師団の第2連隊が国境の南90マイルで中国軍に攻撃され、第6師団は壊滅状態となった。

中国軍はアメリカ軍の陣地に攻撃することは不利と判断し、1950年11月5日に攻勢を中止した。その後、前線から中国軍は消え、代わりに北朝鮮軍が国連軍の前に現れて遮蔽幕を構成した中国軍は、その後方30キロ付近に密かに反撃陣地を構築し、次の攻勢の準備に取り掛かった。

マッカーサーは中国の罠にはまる形で鴨緑江に向けて軍を進め、中国軍はその動きや部隊配置を全て認識した上で待ち構えていたアメリカ軍の前線部隊の指揮官らは迫りくる危険を充分に察知していたが、マッカーサーは自分の作戦の早期達成を妨げるような情報には耳を貸さなかった。マッカーサーの作戦計画は机上空論であり、中朝国境付近は山岳地帯で進軍が困難な上に、半島が北に広がり軍は広範囲に分散すると共に、中国軍の目論見通り、第8軍と第10軍の間隔が更に広がり、第8軍の右翼が危険となっていた。その右翼には中国軍の攻撃で大損害を被った、もっともあてにならないと思われていた韓国第2軍団が配置されていた。

1950年11月24日に国連軍は鴨緑江付近で中国軍に対する攻撃を開始するが、11月25日には中国軍の方が第二次総攻撃を開始した。韓国軍第2軍団は中国軍との戦闘を極度に恐れており、あてにならないとの評価通り中国軍の最初の攻撃でほとんどが分解して消えてしまった。

中国軍の大攻勢が開始されたのは明らかであったのに、マッカーサーはその事実を認めようとせず、1950年11月27日、第10軍のアーモンドに更なる前進を命じている。唯一の実質的問題は兵士を脱出できるかどうかということだったのに、それでも命令は前進しろと言っていた。マッカーサーは仁川の後、完全にいかれていた。実際には前進どころか、第10軍の第1海兵師団は包囲され、第7師団は中国軍の人海戦術の前に危機的状況に陥っていた

ようやく、状況の深刻さを認識したマッカーサーは、トルーマンと統合参謀本部に向けて「我々はまったく新しい事態に直面した。」「中国兵我が軍全滅を狙っている。と報告し、またマッカーサーは自分の杜撰な作戦による敗北を誤魔化すために、今まで共産軍を撃滅する為に鴨緑江目がけて突進を命じていたのに、これを攻勢ではなく『敵軍の戦力と意図を確定させる為の威力偵察』であったとの明らかな虚偽説明を行った。これは無謀な北進が、散々警告されていた中国の本格介入を呼び込み、アメリカ国家的恥辱を与えた事に対する責任逃れであった。

中国軍の攻勢が始まって3日経過した1950年11月28日の夜に東京でようやく主要な司令官を召集し作戦会議が開かれた。マッカーサーが一人で4時間以上もまくしたて中々結論が出なかったが、翌29日に前進命令を撤回し退却許可がなされた。前線より遥かに遠い東京の司令部で虚論が交わされている間にも、国連軍の状況は悪化する一方であり、既に包囲され前線が崩壊していた第8軍の第2師団は中国軍6個師団に追い詰められわずかな脱出路しか残っていない状況であった

マッカーサーは、第8軍に遅滞行動を取らせている間、第10軍を敵中突破させ撤退させることとした。各部隊は中国軍の大軍と死に物狂いの戦いを繰り広げながら「アメリカ陸軍史上最大敗走」を行った。退却した距離は10日で200kmにもなり、1940年のフランス軍やシンガポールの戦いのイギリス軍の崩壊に似たとも評された。撤退は成功し、国連軍は壊滅を逃れたが、受けた損害は大きく、もっとも中国軍の猛攻に晒されたアメリカ軍第2師団は全兵員の25%が死傷するなど、国連軍の死傷者数は12,975名にも上った。しかし中国軍の人的損害はその数倍に及んだ

1950年12月11日、戦況が悪化した為、大韓民国の李承晩政権は国民防衛軍法を発効すると、直ちに民防衛軍を組織し40万人を動員した

LT636号沈没事件

1950年11月15日、元山沖で大型曳船LT636号触雷して沈没し日本人船員22名死亡した

初のジェット機同士の空中戦

中朝軍の国籍識別標識をつけたMiG-15を操縦していたのは戦争初期にはソ連軍パイロットであったが、後半には中国軍のパイロットもかなりの人数が参戦するようになり、朝鮮人パイロットもある程度参加したと言われているが、低い練度のまま参戦したことで十分な訓練を受けたアメリカ空軍のF-86が最終的にMiG-15を圧倒し、最終的にF-86とMiG-15の撃墜率は7対1になった

国連軍の北進と中朝軍の攻勢

MiG-15の導入による一時的な制空権奪還で勢いづいた中朝軍は、1950年12月5日平壌を奪回、1951年1月4日にはソウルを再度奪回した1951年1月6日、韓国軍・民兵は北朝鮮に協力したなどとして江華島住民を虐殺した(江華良民虐殺事件)。■韓国軍国連軍の戦線はもは潰滅し、2月までに忠清道まで退却した。また、この様に激しく動く戦線に追われ、国民防衛軍事件などの横領事件によって食糧が不足して9万名の韓国兵が死亡した1951年2月9日には韓国陸軍第11師団によって居昌良民虐殺事件(韓国軍が共産主義パルチザンを残滅するためとして民間人719人を虐殺)が引き起こされた。 国連軍の士気は低下し、中国軍は前線から姿を消していた。

前線視察中に交通事故で死亡(1950年12月23日)した、第8軍司令のウォーカーの後任に、統合参謀本部マシュー・リッジウェイ副参謀長が命じられた。「リッジウェイが司令官だったら、司令部が遠く離れた別の国にあって、何が起きているか実際には知らず、まったく別の気楽な戦争をやっているということはなかっただろう。」(トルーマンや統合参謀本部の評価)

■リッジウェイはすぐに東京に向かいマッカーサーと面談したが、マッカーサーは「マット、第8軍は君に任せる。一番よいと思うやり方でやってくれ」と部隊の指揮を前線のリッジウェイに任せることを伝えた。

第8軍は、10日間の激戦の末に中国軍を撃退し、1951年2月10日には一部の陣地を残して漢江の線をほぼ回復した。

アメリカ軍は中朝軍の抵抗を受けながらも1951年3月16日には洪川を、19には春川を奪回した。一方、西部では韓国第1師団が1951年3月15日に漢江を渡河しソウル収復した。

膠着状態に

中国軍は日中戦争国共内戦における中華民国軍との戦いで積んだ経験と、ソ連から支給された最新兵器や日本軍の残して行った残存兵器をもとに、参戦当初は優勢だったが、この頃には度重なる戦闘で高い経験を持つ古参兵の多くが戦死したことや、補給線が延び切ったことで攻撃が鈍り始めた。

それに対し、アメリカやイギリス製の最新兵器の調達が進んだ国連軍は、ようやく態勢を立て直して反撃を開始し1951年3月14日にはソウル再奪回したものの、戦況38度線付近膠着状態となる。

中朝軍は占領地域に大規模な築城を行い、全戦線の縦深20-30キロにわたって塹壕を掘り、西海岸から東海岸までの220キロに及ぶ洞窟陣地を構築した。さらに1951年冬から1952年春にかけて、中朝軍は兵力を増加し、86万7000人(中国軍64万2000人、北朝鮮軍22万5000人)に達し、国連軍の60万人を凌駕した

1951年冬から両軍は越冬状態で過ごした。しかし第一線では偵察や警戒行動が昼夜を問わず行われ、死傷者が1人も出ない日はなかった。また両軍とも大規模な作戦行動を採らなかったものの、最も防御に適した地形の確保をめぐって、両軍による高地争奪戦が繰り広げられた

マッカーサー解任

1951年3月24日トルーマンは、「停戦を模索する用意がある」との声明を発表する準備をしていたものの、これを事前に察知したマッカーサーは、「中華人民共和国を叩きのめす」との声明を政府の許可を得ずに発表した後に38度線以北進撃を命令し、国連軍は3月25日に東海岸地域から38度線突破する。

またマッカーサーは、満州国建国後に行われた日本の多額の投資により一大工業地帯を築き、第二次世界大戦と国共内戦終結後もそのほとんどがそのまま使われていた満州の工業設備やインフラストラクチャー施設を、ボーイングB-29とその最新型のB-50からなる戦略空軍によって爆撃する事や、中国軍の物資補給を絶つために放射性物質を散布する事をトルーマンに進言した。

この当時のマッカーサーによる、中華人民共和国国内への攻撃、同国と激しく対立していた中華民国の中国国民党軍の朝鮮半島への投入、原子爆弾の使用などの提言は、戦闘状態の解決を模索していた国連やアメリカ政府中枢の意向を無視しており、あからさまにシビリアンコントロールを無視した発言であった。

マッカーサーが暴走を続けた末に、戦闘が中華人民共和国の国内にまで拡大することによってソ連刺激し、ひいてはヨーロッパまで緊張状態にし、その結果として第三次世界大戦に発展することを恐れたトルーマン大統領は、1951年4月11日にマッカーサーをすべての軍の地位から解任した。国連軍総司令官および連合国軍最高司令官の後任には同じくアメリカ軍の第8軍及び第10軍司令官のマシュー・リッジウェイ大将が着任した。

停戦

この後、1951年6月23日にソ連のヤコフ・マリク国連大使休戦協定の締結を提案したことによって停戦が模索され、1951年7月10日から開城において休戦会談が断続的に繰り返されたが、双方が少しでも有利な条件での停戦を要求するため交渉は難航した。

休戦協定 1953年7月27日

1953年に入ると、アメリカでは1月にアイゼンハワー大統領が就任、ソ連では3月にスターリンが死去し、両陣営の指導者が交代して状況が変化した。1953年7月27日に、38度線近辺の板門店で「北朝鮮、中国軍両軍」と「国連軍」の間で休戦協定が結ばれ、3年間続いた戦争は一時終結をし、現在も停戦中である(調印者:金日成朝鮮人民軍最高司令官、彭徳懐中国人民志願軍司令官、M.W.クラーク国際連合軍司令部総司令官。なお「北進統一」に固執した李承晩大統領はこの停戦協定を不服として調印式に参加しなかった)。

停戦協定は結ばれたものの、板門店ソウル開城市の中間であったことから、38度線以南の大都市である開城を奪回できなかったのは国連軍の失敗であったとされる。

中立国停戦監視委員会

なお、その後両国間には中立を宣言したスイススウェーデンチェコスロバキアポーランドの4カ国によって中立国停戦監視委員会が置かれた。中国人民志願軍は停戦後も北朝鮮内に駐留していたが、1958年10月26日に完全撤収した。

朝鮮半島の分断と離散

「夫が兵士として戦っている間に郷里が占領された」、というような離散家族が多数生まれた。マッカーサーは平壌に核爆弾を投下する構えを見せ、そのため大量の人が南側に脱出し、離散家族大量発生の原因となった。両軍の最前線(38度線)が事実上の国境線となり、南北間の往来が絶望的となった上、その後双方の政権(李承晩、金日成)が独裁政権として安定することとなった。■両国とも互いに国家として承認せず、北朝鮮の地図では韓国が、韓国の地図では北朝鮮地区が自国内として記載されている。さらに国際法上では現在も戦闘が終結していない(休戦中)ままである。ここが、分断されながらも戦火を交えることがなかったこともあり、相互に主権を確認し、国交樹立、国際連合加盟、そして統一まで至った東西ドイツとの決定的な違いである。

逆コース
 
国家・アメリカ密約によって手下にした戦犯を使ってやった、日本再軍備させるための密約条約(暗黒条約)
 
 朝鮮戦争勃発で、北朝鮮を支援した共産主義国に対抗するため、●日本の戦犯追及が緩やかになり、●賠償負担がにわかに軽減されたりした。
日本を独立させるサンフランシスコ平和条約締結ががれ、1951年9月8日(旧)日米安全保障条約と共に締結された。●サンフランシスコ平和条約の発行に先立ち、SCAP覚書により賠償責任は完全免除された。さらに警察予備隊自衛隊の前身)の創設・発足が実現したことで事実上軍隊復活した。これらの事象をまとめて讀賣新聞は「逆コース」と呼んだ。
 もっとも、日本の再軍備自体は連合国軍による占領終了後には必要となってくることから、アメリカ陸軍長官ケネス・ロイヤルが1948年に答申書を提出しており、朝鮮戦争勃発前からほぼ確定していた。

吉田 茂

日本最大の売国スパイ(裏切り者)=暗号名「ヨハンセン」。米国にとっては最も便利な男だった。

吉田に影のようにつきしたがっていたのが白州次郎。吉田茂が戦後台頭すべく画策された秘密工作の全てに関与した男。
鼻は日本人離れ。彼はジョン・
シラス・ウオーバーグ。
■警察予備隊(後の陸上自衛隊) 1950年(昭和25年)8月10日設置 
 冷戦による陣営対立が深まり、ポツダム政令によって設けられた機関。朝鮮戦争に介入したアメリカは、在日米軍を根こそぎ投入し、手薄になった日本の治安維持と防衛のために、連合国軍最高指令官マッカーサー元帥が吉田茂首相に警察予備隊の創設を命じた。
 組織としては総理府の外局扱いとされ、警察とは独立して内閣総理大臣の指揮を受けた。
 日本国憲法施行後(1946年11月3日公布・1947年5月3日施行)わずか3年で、事実上、
日本再軍備第一歩となった。

■旧日米安保条約
 1951年9月8日
 講和会議の舞台となった華やかなオペラハウスとは対照的な、プレシデイオ国立公園の下士官用クラブハウスの一室で行われた調印式には、他の全権委員は欠席し、吉田茂首相が独りで署名に望んだ(臭う)。

■反軍部工作=
米英への通牒工作
 「ヨハンセン」とは、彼らを監視していた軍部・憲兵隊の符丁(暗号)で、このグループの中心と目された吉田茂を意味し、「吉田反戦」(よしだはんせん)の略とされる。このグループは主旨・参加者などが明確な組織として存在したわけではなく、範囲も曖昧である。
 太平洋戦争前夜に日本の対米英戦争を決定した、1941年9月6日の「帝国国策遂行要領」に関する所謂
「御前会議」内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」とは吉田茂。

 白州次郎はユダヤ国際金融同盟の諜報員でありコンプラドールである。商工省の外局にすぎない貿易庁長官でありながら、吉田首相と謀略を練り、外資系企業とくに英国系企業が進出するための抜本改変を敢行した男である。(出典:ヨハンセングループーWikipedia) 
 
岸 信介
A級戦犯
CIAの工作員

満州でアヘンの密売で得た金で東條英機に取り入った。 
■新安保条約(日米安保条約改定) 
 1960年(昭和35年)1月19日にワシントンDCで締結された。岸信介首相とアイゼンハワー大統領が調印。
 この条約は、日本とアメリカの
集団的自衛権を定めたもので、大規模な反対運動が起こった。国会内では、社会党や共産党が、審議拒否・座り込みなどの国会闘争がおこった。また国会の外でも、東大生などが集団デモをおこなった。
 彼らの主張は、
「米ソの冷戦に巻き込まれたくない」というものだった。政府が、国会で条約承認を強行採決し、東大の女子学生一名が死亡した。
 
6月15日18日には、岸から自衛隊治安出動を打診された防衛庁長官赤城宗徳拒否。安保反対のデモが続く中、一時は首相官邸で実弟の佐藤栄作と死を覚悟する所まで追いつめられたが、6月18日深夜、条約の自然成立。6月21日には批准昭和天皇が公布した。新安保条約の批准書交換の日の6月23日、混乱の責任を取る形で岸は閣議にて辞意を表明した。
佐藤栄作岸信介の実弟  ■沖縄返還密約( 佐藤栄作内閣が日米新安保条約・地位協定の継続を選択)
 1972年(昭和47年)の沖縄返還に際して、日米間で結ばれたとされる合意(密約)。

 米軍普天間飛行場の辺野古移設が紛糾していることに象徴されるように、基地問題は戦後70年を経た今も複雑であり、解決の糸口は見えない。その背景には、沖縄返還時に交わされた密約がある。1965年佐藤栄作首相は「沖縄の祖国復帰が実現しないかぎり、我が国にとっての戦後は終わっていない」と宣言した。

 沖縄返還交渉において、佐藤首相とニクソン米大統領の間に密約があったことは、広く知られている。

 
密約第一に、緊急事態においては、在日米軍基地への核兵器の再持ち込みを認めること。

 
密約第二には、沖縄の軍用地を返還する際、原状回復にかかる費用を日本が肩代わりすること。

 上記の2つばかりが注目されるが、あまり知られていない
第三密約がある。
 当時、アメリカでは、日本製の安価な繊維製品の輸入が激増し、繊維業界が大打撃を受けていた。1968年の大統領選で、ニクソン氏は繊維製品の輸入規制を公約に掲げ、次期大統領選でも繊維業が盛んな南部の票が是が非でも欲しかったので、彼にとって繊維問題は極めて重要な政治課題だった。要するにアメリカへの輸出量が大幅に増えないよう、上限を定めたのだ。ところが、佐藤首相は3つの密約のうち、この繊維に関する約束を反故にした。
 その報復で、中国に関する政策は日米間で事前協議をするとの約束があったにもかかわらず、1971年7月、ニクソン大統領は事前通告なしに訪中計画を発表し、日本外務省に衝撃を与えた。
 さらに同年8月15日、終戦記念日をわざわざ選んで、ドルの金の兌換停止を発表。同年12月には1ドル360円から308円に急落し、日本の繊維製品の輸出に急ブレーキがかかった。
 この2つのニクソン・ショックの背景には、密約を反故にされたアメリカ側の怒りがあった。さらに、のちに密約の存在が明るみに出たことで、国民の日米外交に対する不信感を増幅させた。SAPIO 2015年9月号

■非核三原則
 1968年の佐藤栄作首相の発言〈核兵器はつくらず,持たず,持ちこまず〉から,従来歴代内閣によって堅持されてきたとされる核兵器に対する日本の基本政策で,国是ともいわれた。しかし,日本に寄港する米国艦隊には核巡航ミサイルトマホークが配備されているため,この原則は守られていたとは言えないうえ,2009年政権交代して発足した鳩山由紀夫内閣の指示による,外務省の調査は,日米密約の存在を認め,
〈持ち込まず〉の原則が虚偽であったことが判明した。
 日本国民を騙した佐藤が74年度ノーベル平和賞を受賞した。授賞の第1の理由には,日本の非核政策があげられた。
安倍晋三  ■憲法改正
■北方領土返還 

マッカーサーのイメージ戦略と日本属国化支配に貢献した吉田茂
敗戦後の6年間、事実上日本の統治者だったマッカーサー
(出典:ダグラス・マッカーサーWikipedia)

 トルーマンから解任されたマッカーサーは、1951年4月16日にリッジウェイに業務を引継いで東京国際空港へ向かったが、その際には沿道に20万人の日本人が詰めかけ、『毎日新聞』と『朝日新聞』はマッカーサーに感謝する文章を掲載した。しかし、沿道に並んだ学生らは学校からの指示による動員であったという証言もある
 首相の吉田茂は「貴方が、我々の地から慌ただしく、何の前触れもなく出発されるのを見て、私がどれだけ衝撃を受けたか、どれだけ悲しんだか、貴方に告げる言葉もありません」という別れを悲しむ手紙をマッカーサーに渡し、4月16日には衆参両議院がマッカーサーに感謝決議文を贈呈すると決議し、東京都議会日本経済団体連合会も感謝文を発表している。 マッカーサーは空港で日米要人列席の簡単な歓送式の後に、愛機バターン号で日本を離れた。マッカーサー、このとき71歳だった。

 マッカーサーが帰国した後も、5月に入って吉田内閣は、マッカーサーに「名誉国民」の称号を与える「終身国賓に関する法律案」を閣議決定し、政府以外でも「#マッカーサー記念館」を建設しようという動きがあった。  1960年には勲一等旭日桐花大綬章が贈られた。

 マッカーサー人気の終焉
 帰国したマッカーサーが、1951年5月3日から開催された上院の外交委員会と軍事委員会の合同聴聞会で「#日本人は12歳」証言を行ったことが日本に伝わると、この証言が日本人、特にマスコミに与えた衝撃は大きく、『朝日新聞』は5月16日付の新聞1面に大きく【マ元帥の日本観】という特集記事を掲載し「文化程度は“少年”」と日本人に対し否定的な部分を強調して報じた。
 そのため、政府が計画していた「終身国賓待遇の贈呈」は先送り「マッカーサー記念館の建設」計画はほぼ白紙撤回となり、三共、日本光学工業(現ニコン)、味の素の3社が「12歳ではありません」と銘打ち、タカジアスターゼニッコール、味の素の3製品が国際的に高い評価を受けている旨を宣伝する共同広告を新聞に出す騒ぎになった

自国民も虫けら同然の戦争金儲けのアメリカ

 1945年福岡県福岡市の九州帝国大学(現九州大学医学部の解剖実習室においてアメリカ軍捕虜9名に生体解剖(被験者が生存状態での解剖)が施術された事件(九州大学生体解剖事件)で、GHQがこの事件について詳しく調査し、最終的に九州大学関係者14人、西部軍関係者11人が逮捕された。
 1948年8月に横浜軍事法廷で5名が絞首刑とされ、立ち会った医師18人が有罪となった。
 その後、
朝鮮戦争が勃発し、アメリカは対日感情を配慮したことから獄中自殺した1名を除き、恩赦によって減刑されその多くが釈放された。
 戦後60年が経つ頃から、アメリカとの密約で免罪されて、九州大学に戻ってきた731部隊が、第一次安倍内閣(2006年〜2007年)の後、2008年から、九州大学総ぐるみ(血液腫瘍内科の赤司浩一教授が総長)で癌創薬医療事業に進出し、九州全域の医師を集めた市民公開講座を催すなどして、下肢閉塞性動脈硬化症の高齢者を騙して、総合診療科に入院させて、ベルトコンベア式に血液腫瘍内科に送り込んで、大がかりな人体実験を復活している。実験後は急変死を偽装して殺す。

●2019年 自信 勇気 希望   

 平和 喜び 幸福 健康 
 
●平成天皇はよく頑張りしゃった 

  天皇陛下きょう誕生日 声震わせ感謝の思い
2018年(平成30年)12月23日

   
平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに   心から安堵しています

   


   
私はこれまで、象徴としての私の立場を受け入れ  私を支え続けてきた多くの国民に衷心より感謝するとともに

 天皇陛下は、85歳の誕生日にあたっての記者会見で、天皇としてのこれまでを振り返りながら、戦後の日本の道のりとともに、苦難の歴史を歩んだ沖縄平和への思いを述べられた。また、在位中にたびたび起きた自然災害に対する悲しみ、長く心を寄せてきた「障害者スポーツ」や「日系の人たち」への思いについても、これからの願いを込めて語られた。

 そして、共に歩んできた皇后さまと、国民に対して、声を震わせながら
感謝気持ちを伝えられた。

 「結婚以来皇后は、常に私と歩みを共にし、私の考えを理解し、私の立場と務めを支えてきてくれました」「天皇としての旅を終えようとしている今、私はこれまで、象徴としての私の立場を受け入れ、私を支え続けてくれた多くの国民に衷心より感謝するとともに、自らも国民の一人であった皇后が、私の人生の旅に加わり、60年という長い年月、皇室と国民の双方への献身を、
真心を持って果たしてきたことを、心から労(ねぎら)いたく思います」「そして、来年春に私は譲位し、新しい時代が始まります」「新しい時代において、天皇となる皇太子とそれを支える秋篠宮は共に多くの経験を積み重ねてきており、皇室の伝統を引き継ぎながら、日々変わりゆく社会に応じつつ道を歩んでいくことと思います」

歌:ばってん荒川
作詞:たかたかし
作曲:弦 哲也

屋台

つらかとネ、人生は
ばってん気ばって生きんしゃーい

注いでつがれる夫婦盃
いたわりが絵になるふたりづれ

みんな一生懸命生きとった。

生きて行くちゅうこったあ、むずかしかね
ばってんこればかりは投げ出すわけにゃあーいきまっせん
あんたー、明日も気ばって生きんしゃいよオー


憲法改正はない

邪悪な安倍総理は国民の前からとっとと消え失せろ