2018年03月13日

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 帝国主義間集団的自衛権思想帝国主義国が軍事同盟を結んでバランスを取ることによって抑止されるというビスマルク外交以来の集団的自衛権を根拠とした国際理念)の破綻により、人類最初世界戦争となった「第一次世界大戦」(1914年7月28日~1918年11月11日の4年3ヶ月)の後、1924年以降国際協調がひろがった。25年のロカルノ条約(イギリス・フランス・ドイツ共和国・イタリア・ベルギー・ポーランド・チェコの7カ国による集団安全保障条約ではドイツと西欧諸国との国境の現状維持と相互保障が決まり、翌26年ドイツは国際連盟に加入した。1928年、フランスのブリアン外相と合衆国のケロッグ国務長官の提唱で、不戦条約(ブリアン・ケロッグ条約)が15カ国(のち63カ国)によって調印され、国際紛争の手段として戦争に訴えないことが誓われ、戦争違法化ある程度達成した。つまり「国際紛争解決の為戦争に訴えることを非とし..国家の政策の手段としての戦争を放棄」平和的手段で紛争を解決することを各国が宣言した。これが日本国憲法9条に取り入れられている。元が「不戦条約の英文」にある。

 今年第一次世界大戦から丁度100年になり、フランスでは記念封筒を発行している。フランス人の友に第一次・第二次世界大戦を勉強中と伝えると、資料ヴェルダンの戦い」が大量に届いた。ドイツのヒットラーがナチス党を結成したビアホールの「もう一度やろう」ではなくて、不戦世界平和を願ってのことである。

 封筒の表と裏

   


塹壕(ざんごう)

 ヴェルダンは、現在のフランスのロレーヌ県北部、ベルギー国境近くの地点。かつて、ヴェルダン条約が締結されたところ。第一次世界大戦で1916年2月~6月、フランス軍の要塞に向けて、ドイツ軍が総攻撃を行って、大戦最大の開戦が行われたところである。ヴェルダンの戦いでは莫大な量の砲丸が使用され、フランスは31万5千、ドイツ軍は28万1千の死傷者を出した。結果的にフランス軍は防衛に成功し、司令官ペタンの名声が上がった。
 塹壕は遺跡として保存されている。
 たくさんの人が訪れる。

   


新たな武器と総力戦の始まり

 第一次世界大戦は戦争の規模がかつて無かっただけでなく、その質を大きく変化させ、戦争の犠牲が非戦闘員にも直接及ぶという現代の戦争形態の始まりとなった。特に、航空機毒ガス戦車潜水艦といった新しい武器の出現は大量殺戮非戦闘員を巻き込む現代の戦争の特色を見ることができる。また、戦争が一部の職業的な軍隊によっておこなわれるのではなく、国家の経済や国内体制、世論の結束なども求められる総力戦となったことも、現代の戦争の特質であった。

 総力戦:市民を巻き込んで、国民「もうダメだ!」と思わせるとこまでやって勝つ。国民が元気なうちは負かすことができない。
 国民が軍隊を支える。下の切手はNORMANDIE NIEMEN
のものです。

 
 

不戦条約

ハーグ平和会議の開催(1899年(明治32年)、1907年(明治40年))など19世紀末から、国際法上において侵略戦争を実定法により規制平和確保するための努力が進められ、国際連盟規約1919年(大正8年))、ジュネーヴ議定書1924年(大正13年))、不戦条約(パリ不戦条約、戰爭破棄に関する条約)などが締結された。このうち不戦条約第一次世界大戦後の1928年(昭和3年)に多国間締結された国際条約である。同条約では国際紛争解決する手段としての戦争放棄し、紛争は平和的手段により解決することなどを規定した。

;Kellogg-Briand Treaty

ARTICLE I
The High Contracting Parties solemnly declare in the names of their respective peoples that they condemn recourse to war for the solution of international controversies, and renounce it, as an instrument of national policy in their relations with one another.
ARTICLE II
The High Contracting Parties agree that the settlement or solution of all disputes or conflicts of whatever nature or of whatever origin they may be, which may arise among them, shall never be sought except by pacific means.

— Kellogg-Briand Treaty

;Kellogg-Briand Treaty
ARTICLE I
The High Contracting Parties solemnly declare in the names of their respective peoples that they condemn recourse to war for the solution of international controversies, and renounce it, as an instrument of national policy in their relations with one another.
ARTICLE II
The High Contracting Parties agree that the settlement or solution of all disputes or conflicts of whatever nature or of whatever origin they may be, which may arise among them, shall never be sought except by pacific means.
— Kellogg-Briand Treaty[12]
;不戦条約
第一條
締約國ハ國際紛爭解決ノ爲戰爭ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互關係ニ於テ國家ノ政策ノ手段トシテノ戰爭ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ嚴肅ニ宣言ス
第二條
締約國ハ相互間ニ起ルコトアルヘキ一切ノ紛爭又ハ紛議ハ其ノ性質又ハ起因ノ如何ヲ問ハス平和的手段ニ依ルノ外之カ處理又ハ解決ヲ求メサルコトヲ約ス
— 戰爭抛棄ニ關スル條約[13

 第一条:締約国8国際紛争解決ノ為戦争ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互関係ニ於テ国家ノ政策手段トシテノ戦争ヲ放棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ厳粛ニ宣言ス

 第二条:締約国相互間ニ起ルコトアルヘキ一切ノ紛争又ハ紛議ハ其ノ性質又ハ起因ノ如何ヲ問ハス平和的手段ニ依ルノ外之力処理又ハ解決ヲ求メサルコトヲ約す

 日本は第二次世界大戦の戦勝国アメリカ戦利品である。アメリカの属国である。だから日本国憲法原文英語で書かれている。和訳されたのが今の条文。日本国憲法が作成された当時も、戦犯属国ロボットの安倍晋三総理が改憲を叫ぶ現在も「日本はアメリカの属国のまま」である。だから日本国憲法の制定も改憲もアメリカの都合である。表紙は「日本国憲法」で内実は「アメリカ合衆国憲法」である。

ARTICLE 9.日本国憲法9条

   Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes.
  
In order to accomplish the aim of the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained. The right of belligerency of the state will not be recognized.

 1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

ポツダム宣言

 日本国憲法第9条の立法に至る背景には、大西洋憲章(1941年)、ポツダム宣言(1945年)、SWNCC228文書(1946年)などが挙げられる。このうち1945年(昭和20年)7月26日に発表されたポツダム宣言では、日本軍の武装解除とともに、再軍備防止を示唆する条項が盛り込まれた。

憲法改正要綱とマッカーサー・ノートとGHQ原案

 終戦後、憲法改正に着手した日本政府は大日本帝国憲法の一部条項を修正した、陸海軍をまとめて「軍」とする、軍事行動には議会の賛成を必要とする、という規定のみを盛り込んで済ませるつもりであった(「憲法問題調査委員会(松本烝治委員長)」がGHQに提出した「憲法改正要綱(松本案)」)。

 これに対して、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)では戦争と軍備の放棄の継続が画策されていた。その意思は、憲法草案を起草するに際して守るべき三原則として、最高司令官ダグラス・マッカーサーがホイットニー民政局長(憲法草案起草の責任者)に示した「マッカーサー・ノート」に表れている

 次のような点でGHQ原案はマッカーサー・ノートとは異なる。

  1. マッカーサー・ノート第二原則第2文「even for preserving its own security(自己の安全を保持するための手段としてさえも)」に該当する部分が削除された。
    これはすべての国は自国を守る固有の権利を有しており、自衛権の存在・行使を明文で否定することは不適当であるとGHQ原案の作成にあたった運営委員会の法律家らが考えたためとされるマッカーサーも後年の回想録の中で憲法9条自衛権まで放棄したものではないと述べている
 従来国際法上解釈に基づけば、国際紛争解決する手段としての戦争とは侵略戦争意味するものであるから、自衛戦争放棄されていない。当然である。 

1.自衛権は、国家固有権利として日本国憲法第9条でも否定されていない。

2.自衛のための必要最低限度実力保持することは、憲法上許されている。

3.自衛隊は、必要最低限度実力であり戦力ではないため、合憲である。

■ 自衛権
 外国からの急迫または現実の違法な手段に対して、自国を防衛するために必要な一定の実力を行う権利。
個別的自衛権集団的自衛権がある。
 
★個別的自衛権では「相手国の領土の占領などは、必要最小限の実力を越えるもの」と考えられるため、認められていない。集団的自衛権で(海外に赴いて)戦争するときに利用できる。好戦的な集団(国々)がやる。
 
★集団安全保障国際連盟(連合)加盟国安全加盟国集団で守る。

朝鮮戦争とアメリカの改憲・派兵要求

朝鮮戦争勃発(1950年)によってアメリカから、日本を朝鮮戦争に派兵させるため改憲要求が出された。アメリカの要求に対抗するため総理大臣吉田茂は社会党に再軍備反対運動をするよう要請した。

   戦争立国のアメリカは第一次世界大戦のときから兵士のリクルートをやっている。第二次世界大戦後の1948年(昭和23年)にはロイヤル長官が「アメリカ人的資源のためにも日本再武装が望ましい。そのためには日本人が改憲することが必要だ」と答弁している。その後、ベトナム戦争・港湾戦争と続き、自国民の人的資源は底をついている。今後は「脳無し・言いなりロボットの安倍晋三」をむち打って、属国民の日本国民を戦場に動員するしかない。それが9条改憲騒動である。日本国民は覚醒して、この国難を克服して、見せかけでなくて、本当の「独立」を樹立しなければならない。



第9条をめぐる歴史

比較憲法的考察

 現在、同様に戦争放棄を憲法でうたっている国としてはフィリピンがある。また、侵略戦争のみを放棄した憲法を有する国は西修の調べでは124ヶ国にのぼる。

 勝った方(強い方)が引かなければおさまらない。負けた方(弱い方)は引くにもあとがない。戦争は勝っても負けてもいいことはない。


目 次

● 集団的自衛権の起源と戦争の克服

 

 国際社会において、国家が軍隊を使って他国を攻撃することは禁止されています。でも、他国に攻撃された時に軍隊を使って戦い、自国を守るのは認められています。これが個別的自衛権です。自分を守るために戦うのはOK。これはまあ、何となく分かる気がします。

 同じように、自国と密接な関係をもつ国が攻撃されたときに、「助けてくれ!」という要請に応えて侵略国と戦う権利。これが集団的自衛権です。なにそれ?

試行1 同盟の軍事力で抑止すれば平和になる

   戦争が起こっていない状態(消極的平和)を平和と定義するならば、平和達成の方法を人類は数多く試してきました。その最も古典的な方法が軍事同盟による平和です。利害が一致する国が同盟を組み、同盟軍事力でもって外敵を抑止し、戦争を未然に防ぎます。現代でもよく使われるロジックです。 
   A国はD国との間に領土問題を抱え、近年ますます対立が深まっています。Aは軍事力に乏しい平和主義の国ですが、Dは発展いちじるしい野心的な軍事大国だと見られています。Aの弱さにつけ込み、Dが攻め込んでくるかもしれません。 

 Aは我が身を守るため、Bと同盟してDに対抗します。DはAに攻め込むと、Bからも反撃を受けるので、戦争をためらいます。Aは同盟によってDを抑止することができます。

 このようにして軍事小国でも身を寄せ合うことで大国に対抗すれば、特定の大国が横暴に振る舞うことはできません。仮に戦争をしても、対抗同盟によって反撃されるので、大勝利を収めることはできそうにないので、仕方が無いから平和が保たれるでしょう。

 ささやかな成功

 19世紀のヨーロッパはこんな感じで、わりあい平和であり、戦争が起こっても小規模で済みました。しかし、成功しても、獲得を望みうるのは、せいぜい国境の小さい町かちょっとした領土に過ぎない。それは戦争の出費につりあわない。これが勢力均衡(バランス・オブ・パワー)モデル、同盟による平和です。 

失敗1 同盟こそが世界大戦を招いた

   ところが100年前の1914年には、同盟こそが大戦争トリガーになりました。先ほどのA国とD国の話に戻りましょう。AはBと同盟してD国の脅威に対抗します。でもD国やそれに近しい国々から見れば、AB同盟こそ重大な脅威だと感じるでしょう。今度はDを中心とした同盟が生まれます。

 2つ同盟ができ、対立する関係ができます。このような国際関係が固定化すると、やがてとんでもないことになります。全ての国がどっちかの同盟に入っているので、中立の立場から対立をマアマアと宥める仲介役もおらず、相互不信が解消されません。

 AからGまでの7ヶ国のうち、どこか2ヶ国の間で戦争が起こったとき。残る5ヶ国も同盟に従って参戦すると、普通ならただの2国間戦争で済むところが同盟同盟大戦争になってしまいます。

 ちょっとした事件が戦争に、戦争が大戦争へと拡大し、人類史上初「世界大戦」(第一次世界大戦)が起こってしまいました。

 軍事力で戦争を防ぐための同盟が、かえって国際関係に相互不信を起こさせ、いざ戦争が起こったときにはそれを拡大させてしまいました。同盟の軍事力によって平和を保とう、という人類の試行はそもそも間違っていたのではない.か、と当時の人々は考えました。

試行2 戦争の放棄と平和主義、国際機構で平和になる

 今こそ別の方法を試してみる時でした。戦争違法化です。

 大戦の後、1928年に発効された不戦条約は、戦争の違法化をある程度達成しました。つまり「国際紛争解決の為戦争に訴えることを非とし…国家の政策の手段としての戦争を放棄」し、平和的手段で紛争を解決することを各国が宣言したのです。

 戦争違法化の流れは、第二次大戦後も継続し、国連憲章をもって一応の完成を見ました。この流れを受け、多くの憲法で戦争の放棄が明記されました。その中に日本国憲法も含まれます。憲法でいう戦争の放棄や平和主義は日本に独特のものではなく、戦争違法化を少しずつ進めてきた人類史的潮流、その一支流をなすものです。

 これを誤解して、世界に類をみない平和憲法がある日本は平和国家で優れている、というような捉え方をすると、万世一系の天皇制がある日本は神国で優れている、アジア唯一の文明国として未開国を啓蒙するんだ、というのと異質同型なナショナリズムに回収される恐れがあります。

 自国が他国より優れているとする思想は、自国には他国を指導する権利があるという独善主義に陥りがちです。それはいかなる国にも他国を侵す権利などないという思想と、対極にあるものです。戦争の放棄や平和主義に価値が認められるのは、それがどこかの国の専売特許では「無い」からこそなのです。

 ともあれ、このような潮流によって人類は戦争を違法化し、ひとまずは国際連盟による平和が追求されました。

失敗2 同盟の機能不全と抑止力の破綻

 平和を求める声は、ヒトラーの耳にも届いていました。ただし、異なった響きをもって。有名例としては, 1933年にオクスフォード大学の弁論クラフであるオクスフォード・ユニオンで行われた討論をあげることができる。この討論を聞いていたのは, 学生たちだけではなかった。アドルフ・ヒトラーも聞いていたのである。

   第一次世界大戦で2000 万人もの犠牲者が出たことから,半数以上の学生は,今後は二度と王や国家のためには戦うべきでないという命題に賛成した。 
 彼は民主主義諸国は軟弱だ,どうせ反撃してくるおそれはないのだから押せるだけ押してやれ,と考えた。((国際紛争 原書第9版 -- 理論と歴史p30)

  ヒトラーは、軍事力を使った恫喝で領土を拡張しても、イギリスやフランスは反撃してこないだろう、と高をくくっていました。実際、ドイツの度重なる領土要求に対して、英仏は軍事制裁を行わず、代わりに小国をヒトラーに差し出す始末。英仏はドイツ領内に殴り込む余力を失っていたし、ドイツがソ連の脅威への壁になってくれるだろうという虫のいい期待感もありました。

 ヒトラーのバクチ的な軍事外交は成功を重ねます。その最終段階で英仏はついに「もしドイツがポーランドに攻め込めば、英仏はポーランド側に立って参戦する」と言って、戦争を抑止しようとしました。しかし、ヒトラーはこれを信じなかったので、第二次世界大戦が起こりました。

 戦争を嫌い、平和を求める意志が十分でも、それを実現するための軍事力を欠いた時、抑止力は失われて戦争が起こります。

試行3 国連集団安全保障で平和になる

  第二次世界大戦のあと、人類はさらに別の手段を試すことにしました。国際連盟による平和は失敗したけれど、アイデアを改良することにしたのです。ごく簡単にいえば国連軍世界平和を守る」ということを考えました。

 まず全ての国の「武力の行使」を禁止します。「戦争」ではなく武力行使を禁止したのは、不戦条約のあとも日本などが「これは戦争ではなく事変だ」と強弁して侵略に邁進したからです。

 もしルールを破って武力を行使する侵略国が出現すれば、それ以外の国々が連合して軍隊を組織し「強制措置」と呼ばれる武力制裁を行います。

 第二次大戦の前にも、侵略国への制裁は認められていました。しかし経済制裁が主であった上、制裁は各国が個別に実施することになっていたので、手抜きをする国がでて足並みが揃いませんでした。この反省から、多くの国が結束して武力制裁しなけば、侵略国にストップを欠けるのは難しいと考えられました。

 この構想が実現すれば、「もし自国がどこかの国から侵略を受けても、国連軍がやってきて守ってくれる」ということになります。…本当に?

「国連が守ってくれるから、自国の軍事力や同盟には頼らなくていい」と、少なくともラテンアメリカ諸国は考えませんでした。

失敗3 国連は機能しなかった

 ラテンアメリカ諸国が国連軍を信用しなかったのは2つの理由があります。1つは拒否権、もう1つは時間の余裕です。

 侵略国に対する軍事的強制措置、いわゆる「国連軍」を編成するには、国連安全保障理事会が「この国は侵略国だ、憲章違反だ!」と認定して、強制措置の発動を決議せねばなりません。

 しかし「拒否権」をもつ米国、ロシア、中国ら常任理事国のうち、1ヶ国でも反対すればその決議は流れます。このため侵略を受けても、必ず国連軍が助けに来てくれるとは限らないのです。

 しかも、もし強制措置が発動されたとしても、戦争が始まってから国連軍が到着するまでにはタイムラグがあります。安保理が事態を認定し、審議し、決議し、各国が兵力を準備し、派遣する…。その間に、侵略を受けた国は全土を占領されたり、市民を虐殺されたりするかもしれません。よって、国連軍に期待するとしても、その到来までは自力で国を守らないといけません。

 ラテンアメリカ諸国が国連憲章に「ちょっと待ってくれ」と言ったのはこのためです。「武力の行使の禁止」が、地域的同盟にもとづく反撃すら禁止するものなら、小国はかえって危険な状態におかれると恐れたのです。自分は攻撃されていなくても同盟国を助けようとすると「待て、国連憲章は武力行使を禁止しているぞ」と禁止されたら、小国たちは一国、また一国と侵略国に呑み込まれてしまうでしょう。

 実際、拒否権の乱発によって国連の集団安全保障は機能不全に陥ったので、彼らの心配は正しかったといえるでしょう。(もっとも、国連軍ならぬ同盟軍なら確実に来てくれる、というわけでもないのですが)

 こうして「武力行使の禁止」が合意された後にも、同盟という古典的政策を存続させるため、集団的自衛権というアイデアが発明されました。同盟国のための武力行使は、国連憲章の禁止の対象外である、なぜならそれは自衛の範囲だから、というわけです。

 集団的自衛権の功罪

 集団的自衛権の誕生と、同盟の存続は、世界の平和に一役勝ったのでしょうか。それとも戦争の無い世界を遠ざけたのでしょうか。どちらの答えもイエスです。

 集団的自衛権が固有の権利として認められたことで、それを根拠として多くの同盟や集団防衛条約が結ばれました。中でもその軍事力において最大規模を極めた2つが北大西洋条約(49年)ワルシャワ条約(55年)です。この2つの条約はいずれも集団的自衛権を根拠として条文に記しています。

 両条約にもとづく同盟軍、NATO軍ワルシャワ条約機構(WTO/WP)軍が、ヨーロッパで睨み合っていたのが冷戦時代です。もし両陣営のいずれかの国の間で戦争がおき、エスカレートすれば、第三次世界大戦が起こるはずでした。同盟の存続は、大規模な軍事的対立も存続させたのです。

 「これは侵略ではなく集団的自衛権の発動なんだ」と、武力行使を正当化する例も多くみられました。ソ連によるハンガリー動乱チェコ動乱への介入アフガニスタン侵攻。★米国によるニカラグアへの介入ベトナム戦争。そのほか★リビアによるチャドへの武力行使など。それぞれの理非はさておき、これは自衛なんだといって、呼ばれてもいない他人喧嘩を買いにいく、侵略がおきる可能性が残りました。

 このような危険な世界において、各国は軍事同盟によって大戦争に巻き込まれる恐怖を持ちながら、軍事同盟によって戦争が抑止される希望のゆえに、同盟に身を委ねざるを得ませんでした。

 つまり集団的自衛権を認めることで、世界危険温存されました。危険な世界で身を守るには、集団的自衛権が必要でした。これは抜けられない循環です。

 2014年現在、人類はあまり進んでいない

 かといって、集団的自衛権を認めない=あらゆる軍事同盟を解消して、かわりに集団安全保障で世界を平和にすることは、まだできていません。抑止力が機能しない地域では、拒否権を持つ大国やその友邦国が隣国を侵略できます。

 2014年、ロシア軍がウクライナのクリミア半島に侵入しました。クリミアを実質的に占領した状態で、住民の投票を行い、ウクライナからクリミアを奪い取りました。かつてヒトラーのドイツ軍も、「オーストリア政府の要請だ」といって同国に侵入し、オーストリアを併合しました。

 世界は現在も、安全ではありません。武力に裏打ちされた、機能する同盟関係がなければ、国際の平和は保ち難いのです。しかし集団的自衛権侵略口実になったり、同盟関係こそが戦争拡大させることも起り得ます。どの道にもリスクはあり、ゼロにはできないのです。

 戦争克服への道

 100パーセントの答えは無いということ、そこから始めなければなりません。

 平和を愛して軍事力を忌避する人々は、第二次世界大戦を起こすでしょう。抑止を重視して軍事力に依存する人々は、第一次世界大戦を起こすでしょう。

 「ダレス・バック」の名前の元になったことでも知られているジョン・フォスター・ダレスは、サンフランシスコ会議の後、国連憲章の批准をめぐり、上院の公聴会をこう締めくくりました。

 世界は、無政府状態からよく練り上げられた政治的秩序状態へと、一歩だけでは移ることはできない。

 何歩も、それもふらつきながら進まねばならないのだ。これまでにもあったように、歩みを誤ることもあるだろう。(中略)

 永遠平和というものは、おそらく試行錯誤のみによってしか得られないものなのかもしれない。しかし、ともかくも試行せぬことには、決して得られることもないのだ。

 (ジョン・フォスター・ダレス 1945年 上院外交委員会)

  ダレスはアメリカ国連憲章に批准させ、国連時代を導きました。一方で冷戦時には日米安全保障条約などの軍事同盟の構築に尽力しました。

 過去の失敗を繰り返すのは愚かしいことです。だからといって不確実な未来に飛びつくのも軽率だと、やはり過去の失敗が教えています。だとすれば、とりあえず、その中間に道を拓いていくしかないでしょう。

 過去を反省し、未来に夢を見ず、現在の複雑さに耐えて、一歩一歩進むことです。それがいつの日か戦争の克服を見るための、人類の長い旅なのです。

 リアリズムと防衛ブログ     http:www.riabou.net/entry/2014/08/26/225227

 歴史に学び、各自が答えを考え抜く。自分の命は自分で防衛する。

● 第一次世界大戦

 

第一次世界大戦

 1914年7月28日から1918年11月11日の4年3ヶ月続いた、人類最初の世界戦争。帝国主義国家がドイツ・オーストリアを中心とした同盟国イギリス・フランス・ロシアを中心とした協商国の二陣営に分かれて戦い、総力戦という戦争の性格や飛行機、潜水艦、毒ガスなど新しい武器が出現し、戦争の形態を一変させた。1917年アメリカ参戦によって協商側の勝利となった。戦争の過程でロシア革命が勃発、ソヴィエト=ロシアの労働者政権が出現し、各地の民族運動も激化した。パリ講和会議の結果、国際連盟が発足、ドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国・ロシア帝国・オスマン帝国などは消滅した。

■大戦の概要と世界史的ポイント

 帝国主義間の集団的自衛権思想の破綻 19世紀末から帝国主義諸国はイギリスの3C政策、ドイツの3B政策に見られる世界戦略を推し進め、アフリカ、中東、南アジア、中国、太平洋地域で世界分割に狂奔していた。バルカン半島ではロシアの南下政策とオーストリアによるボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合による対立がバルカン問題として深刻化していた。当時は、帝国主義国が軍事同盟を結んでバランスを取ることによって抑止されるというビスマルク外交以来の集団的自衛権を根拠とした国際理念が通用しており、世界戦争は回避あるいは抑止されるとみられていたが、それはサライェヴォの一発の銃弾でもろくも破綻したといえる。
 
戦火の拡大と総力戦化 戦闘はほとんどヨーロッパのドイツの東西で東部戦線、西部戦線で展開されたが、他にトルコの周辺の西アジア、ドイツ勢力圏の及んだアフリカ、中国でのドイツ権益に対する日本の攻撃など、地球的規模で戦争が広がった。また、初期の想定に反して戦争は長期化し、各国とも戦闘力を維持する国内経済、産業、動員態勢の強化を迫られ、一部の専門的な職業軍人だけが戦う戦争ではなく、国家を挙げた総力戦とならざるをえなくなった。
 
大量殺戮兵器の出現 また戦争の形態は高度に技術化され、飛行機、潜水艦、毒ガスなど新しい武器を出現させ、戦争は戦闘員のみならず、一般市民をまきこみ、広範な犠牲を人的、物的に及ぼす戦争となった。このような戦争形態の変化は約百年前のナポレオン戦争に萌芽があったが、第一次世界大戦で徴兵制度国民動員科学技術の戦争利用秘密外交などの現代の戦争の要素がさらに鮮明となった。
 
アメリカの参戦とロシア革命 戦争の長期化、戦線の拡大、国民生活への犠牲の増大は、次第に各国での厭戦気運を高めていったが、決定的な転換点となったのは、1917年5月のアメリカの参戦と11月のロシア革命(第2次)であった。アメリカの参戦は西部戦線におけるドイツの前進を阻み、ロシア革命は東部戦線での単独講和の可能性を生み出した。ドイツ国内でも兵士労働者ドイツ革命が起こったことによって1918年11月に戦争は終結した。
 集団安全保障の理念への転換 翌年パリ講和会議が始まり、1919年にヴェルサイユ条約として講和条約が締結され、新たな国際的平和維持機構として国際連盟を発足させ、集団安全保障を新たな国際理念とする世界に転換した。しかし、ヴェルサイユ体制と言われる戦後体制は様々な問題点をかかえ、大戦後のファシズムの台頭、アジアの民族主義の台頭という新たな試練に耐えなければならなくなり、20年後1939年第二次世界大戦勃発を防ぐことはできなかった。
 民族独立の動き 一言で言えば第一次世界大戦帝国主義国家間領土的野心矛盾修復できない飽和点に達して起こったのであるが、帝国主義の犠牲となっていた植民地・被抑圧民族にとっては自立の好機となった。民族自決理念の下に、ヨーロッパの旧帝国の抑圧を受けていた諸民族(東欧諸国など)は自立したが、インド、中国などの民族運動はさらに抑圧が続いた。中東ではオスマン帝国の崩壊に乗じてイギリス・フランスによって新たな勢力圏分割が行われ、さらにユダヤ人国家の建設が具体化することによって、現在に続く中東問題原因を作った。

  (1)第一次世界大戦の原因と概要

 戦争の原因

 根本的な要因としては、列強の領土植民地勢力圏をめぐっての対立から起こった帝国主義戦争である。列強は19世紀末から各地で衝突を繰り返していたが、主としてバルカン問題におけるオーストリアとセルビアの対立に、それぞれ背後についているドイツとロシアが応援する形となり、またヴィルヘルム2世世界政策として展開した3B政策などが西アジアやアフリカにおいてイギリスの3C政策やフランスの植民地政策が衝突したことなどから二大陣営形成されることとなった。さらにヨーロッパの帝国主義列強がアジア・アフリカに殖民地を所有していたことから、殖民地における情勢が複雑に関係した。ドイツ側についたオスマン帝国に対して領内のアラブ人勢力をイギリスが支援して西アジアにも戦争は拡大し、東アジアでは日英同盟を口実とした日本中国太平洋ドイツ権益攻撃した。こうしてこの戦争は人類最初の「世界戦争」となった。

 交戦国

 帝国主義の列強が同盟国側と連合国側の二陣営に分かれ、それに周辺諸国が利害関係の対立、領土的野心などの思惑からいずれかの陣営に加わり、世界が大きく二分されることとなった。
同盟国といわれたのは、三国同盟ドイツオーストリア=ハンガリー帝国を基軸とし(イタリアは中立を宣言)、トルコ(オスマン帝国)、ブルガリアなどが加わった。
連合国協商国とも言う)フランスイギリスロシア三国協商を軸に、セルビアモンテネグロルーマニアギリシアのバルカン諸国、三国同盟を離脱したイタリアが加わった。ヨーロッパ以外では、アジアでは日本(14年8月)、中国(17年8月)など32カ国が連合国側に参戦した。また、イギリスの海外自治領であるカナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アも協力し、植民地インドからも徴兵された。アメリカの参戦は大戦の後半、1917年4月であったが、それが連合国側の勝利に決定的な要因となった。

 反戦運動とその挫折

 各国では戦争反対の声も多かった。特に労働組合と社会主義政党は、帝国主義戦争に反対の立場を取っていたので、第2インターナショナルもただちに戦争反対の声明を出した。フランスではジョレスがもっとも熱心に戦争反対を叫んだ。しかし彼は、開戦直後に暗殺されてしまった。実際に戦争が始まると、各国の社会主義政党も次第に自国戦争支持する側に回るようになり、国際連帯による反戦運動は崩壊した。またドイツでは社会民主党も戦争支持の主流派であるシャイデマンやエーベルトが優勢となり、あくまで反戦を主張したカウツキー、リープクネヒトローザ=ルクセンブルクらは独立社会党を結成して分裂した。ロシアでもメンシェヴィキエスエルは戦争支持を表明し、戦争反対を主張したボリシェヴィキは少数派となり、弾圧された。こうして第一次世界大戦は労働者の国際連帯を目指した第2インターナショナルの運動を崩壊させることとなった。

(2)第一次世界大戦の経過

1914年6月にオーストリアがセルビアに宣戦布告して開戦となる。ロシア、ドイツ、フランス、イギリス、イタリアが参戦しヨーロッパ主戦場となる。東西戦線長期化し、総力戦が続く。

 開戦

 ・宣戦布告 1914年6月28日のサライェヴォ事件を受けて、オーストリア=ハンガリー帝国の皇帝フランツ=ヨーゼフ1世とその政府は、セルビア人の実行犯の背後には大セルビア主義の民族団体とそれを支援するセルビア政府がいるとして、ドイツ帝国ヴィルヘルム2世とその政府から白紙委任を取り付けた上で、最後通牒を発し、セルビアが拒否したことを受けて7月28日、セルビアに宣戦布告した。ロシア帝国ニコライ2世はセルビアを支援するため軍隊に動員をかけ、それを知ったドイツがロシアに最後通牒を発すると、ロシアがそれに答えて8月1日にドイツに宣戦布告、ドイツとロシアの開戦は必然的にフランスを巻き込むこととなり、ドイツはフランスに対して中立を要求したがフランスはそれを拒否して3日に宣戦布告した。こうしてバルカンの地域紛争は、ヨーロッパの列強が連鎖的に加わる世界戦争に転化し、「八月の砲声」がヨーロッパにとどろくこととなった。
 ・ドイツ軍のベルギー侵攻 ドイツは8月2日、ベルギーに対しドイツ軍の通過を要求、拒否されると4日に侵入を開始した。中立国ベルギーが侵犯されたことを理由にイギリスは参戦した。ベルギーは予想に反して激しく抵抗したが、ドイツ軍は6日にリエージュを包囲して列車輸送式の大砲で大量の砲撃を加え、さらに飛行船ツェッペリン号による空爆を加えた。大量の砲撃と空爆という近代戦がリエージュ攻撃から始まった。しかしリエージュはよく抵抗し、8月16日まで持ちこたえた。

 マルヌの戦い

 1914年9月、ドイツ軍はシュリーフェン計画に基づき、大軍をベルギーから侵入させ、パリの西方に向かわせた。パリの西側を迂回する計画であったが、現地指揮官は途中で方向を転じパリの東側に向かった。移動中のドイツ軍をイギリスの偵察飛行機が発見、フランス軍が急襲し、好機を作った(このときパリのタクシー600台が兵員輸送に活躍した)。パリ東方のマルヌ川付近での会戦は、ドイツ軍のモルトケが安全を期して戦線を後退させたので、ドイツ軍の進撃が止まった。こうして当初の6週間でパリを陥落させるというドイツの戦略がくずれ、長期戦の様相を呈することとなり、いわゆる西部戦線での膠着した塹壕戦に移行していった。

 Episode 「マルヌのタクシー」

 9月5日、フランスの第六軍(総司令官ジョッフル)はマルヌでドイツ軍を迎え撃った。だが、フランス軍は手薄であり、この戦線に新鋭部隊を投入することがどうしても必要になった。 (引用)そのころ、パリの街を走るタクシーはルノー製のものがほとんどだったが、フランス軍はそれらを大急ぎでかき集め、前線への兵員輸送に当たらせた。その数は600台と伝えられる。その作戦はみごとに成功し、マルヌ会戦はフランスの勝利に終わり、ドイツ軍は退却をよぎなくさせられ、以後は塹壕戦/陣地戦の膠着状態に入り、これがドイツ敗北の遠因となった。パリ陥落の危機は救われた。そいてルノー製のそれらのは、後々までも、”マルヌのタクシー”として歴史に名を留めている。現在もその一台は、パリのルノー博物館に誇らしげに展示されている。なおこれらのタクシーは、使用のたびごとに通常の料金を払ってもらった。”タクシーに乗って”戦場に、そしてあるいは死へとおもむいたことになるが、そこにはどこか20世紀ならではのブラック・ユーモアが見え隠れしている。<折口透『自動車の世紀』岩波新書 1997 p.94>

 西部戦線

 ドイツ軍はベルギー領内を破竹の勢いで突破、ついにフランス国内に侵入した。シュリーフェン計画では最右翼は大きく迂回してパリの西側に回る予定であったが、功を焦ったかクルップ将軍が進路を東に変えてしまった。それをイギリス軍の飛行機が発見して陸上のフランス軍に連絡、ジョッフル将軍麾下のフランス軍がドイツ軍を捕捉し、9月5日、マルヌの戦いでその進軍を阻止した。ドイツの総司令官モルトケは、当時東部戦線でロシア軍が予想以上に迅速に国境に迫っているとの知らせを受け、東部戦線からロシア戦線へ兵力を一部移動させるためドイツ軍は戦線を後退させたのである。こうしてドイツの短期決戦策は失敗し、独仏国境線にそって西部戦線が形成され、両軍とも塹壕を掘って対峙する長期戦に突入した。ドイツ軍は塹壕戦での新戦術として毒ガスを開発、1915年4月のイープルの戦いではじめて使用し、戦争は陰惨な様相を呈していった。

 Episode 「西部戦線異常なし」

 西部戦線に実際に参加したドイツのエーリッヒ=レマルクは、1927年にそのときの戦場体験をもとに『西部戦線異常なし』を発表した。これは過酷な戦場の現実を告発した反戦文学として、世界的な反響を呼んだ。早くも翌1930年にアメリカのルイス=マイルストンが映画化し、第3回アカデミー賞を受賞して日本でも評判となった。その後も何度か映画化されているが、やはりこの作品が鮮烈だ。華やかな歓声に送られ、戦場に向かった若い兵士たちを待ち受けた現実。塹壕の中に閉じこもる主人公の頭上に・・・。一人の兵士は死んだが、前線から本部に送られた報告は〝西部戦線異常なし〟という電文だった。

 東部戦線

 第一次世界大戦でドイツ・オーストリア=ハンガリーの東部に形成された戦線を東部戦線という。1914年8月、ロシア軍がタンネンベルクの戦いでドイツ軍に大敗したため戦線を後退させた。

 タンネンベルクの戦い

 ドイツの東側の東部戦線で、1914年8月17日、ドイツ領東プロイセンに進撃したロシア軍が、タンネンベルクでドイツ軍に敗れた。ロシア軍は当初、ドイツの予想を上回る速さで進撃してきたが、次第に補給と通信の不備が露呈してきて、進撃が停滞した。ドイツの戦線立て直しに派遣された新司令官ヒンデンブルク大将とルーデンドルフ参謀長は、ロシア軍の無線を傍受してその進路を知り、列車で大軍を移動させて、タンネンベルクのロシア軍を急襲して勝利を収めた。このときの戦闘で25万人のロシア兵のうち、12万5千が戦死か捕虜になり、ドイツ側の損害は1万にすぎなかった。タンネンベルクでのロシア軍の敗北は、ツァーリ政府の威信を著しく落とし、ロシア革命勃発警鐘となった。

 Episode ドイツ軍の復讐の地、タンネンベルク

 第一次世界大戦でドイツがロシアに大勝したタンネンベルクは現在のポーランド、ワルシャワの北方約150kmほどにあり、グルンヴァルトという。この地は1410年、ドイツ騎士団団がリトアニア=ポーランド王国軍と戦い、撃破されたところであった。ドイツ騎士団が大敗を喫したこの闘いは、ドイツ人にとって屈辱的なものであったので、今度の勝利をあえてタンネンベルクの戦いとよんだ。グルンヴァルトはその後20世紀にいたるまでポーランドとの対決と復讐を象徴する地となったわけだ。

 バルカンでの戦線

 第一次世界大戦の直接の引き金となったバルカン半島での両陣営での対立も続き、もオーストリア=ハンガリーとブルガリアの同盟国側とセルビア・モンテネグロ・ルーマニア・ギリシアの連合国側が各所で交戦した。次第にオーストリア=ハンガリーは多民族国家の弱点を露わにして、敗北することが多くなった。また東部戦線には入らないが、トルコ領でもガリポリの戦いがあり、中東でもドイツ・トルコ軍とイギリス・フランスなどの連合軍が闘った。

 ガリポリの戦い

 第一次世界大戦オスマン帝国(トルコ)が1914年10月に参戦したため、ダーダネルス=ボスフォラス海峡がドイツ海軍にを抑えられることとなった。これは、ロシアにとって危機であり、イギリスにとってもスエズ運河防衛にも大きな障害となる。そこでイギリスの海軍大臣ウィンストン=チャーチルは、英仏軍とロシア軍が連絡をつけることができるようにするため、ダーダネルス海峡の入り口にあたるトルコのガリポリ要塞を攻撃・占領する作戦を立てた。その作戦に基づいて、1915年4月25日、イギリス・フランスの連合軍にオーストラリア・ニュージーランド連合軍(ANZAC)が加わって攻撃したが、トルコ軍は守備隊長ムスタファ=ケマルに指揮されて容易に陥落しなかった。
 攻防が続く間、1915年10月14日にブルガリアが同盟国側に参戦し、12月にはセルビア軍がオーストリア軍に敗れたためドイツ・オーストリア軍とトルコ軍が直接連絡を取ることができるようになり、連合国軍のガリポリ作戦は失敗に終わり、翌16年1月に撤退した。その代わりに15年10月にギリシア領のサロニカに上陸し橋頭堡を築き、ギリシアを説得して
連合国側に参戦させた。
 このガリポリの戦いで英仏軍を撃退したトルコのムスタファ=ケマルはこの時弱冠34歳、ガリポリの英雄として戦後にその名声を高め、後にトルコ共和国の初代大統領となる足場を築いた。一方のチャーチルは作戦失敗の責任を取り、一時閣外に去る。なお、オーストラリアでは、4月25日をアンザック・デーとして戦死者を追悼する日としている。(A=Australia NZ=New Zealand A=Army C=corps)

 ソンムの戦い

 第一次世界大戦で1916年6月~11月、北フランスのソンムでドイツ軍に対するイギリス・フランス連合軍の総攻撃が展開された。イギリス軍のヘイグ将軍は、まだ実験段階だった戦車をはじめて実戦に投入した。戦闘は全くの消耗戦となり、イギリス軍に42万、フランス軍に20万、ロシア軍に45万の犠牲者を出し、勝敗無く終わった。
(引用)理想主義はソンムで滅んだ。熱狂した志願兵たちは、もう熱狂しなくなった。かれらは、戦友への誠実さ以外は、大義名分とか指導者とか、あらゆるものへの信頼を失った。戦争は目的をもつことを止めた。戦争はただそれだけのために、いわば根気くらべとして続いた。<A.J.P.テイラー『第一次世界大戦』新評論 P.145-148>

 海上の戦い

 大戦前、イギリスとドイツは建艦競争を繰り返し、巨大な艦隊を有していたが、開戦当初はイギリスが制海権を握り、ドイツ海軍はバルト海から出られず、「宝の持ち腐れ」状態だった。唯一、ドイツ東洋艦隊は太平洋を縦横に活動して、イギリス海軍・フランス海軍と戦っていた。しかしホーン岬を回って大西洋を北上したところで1914年12月、イギリス海軍に敗れ撃沈された。
 その後、陸上の戦いが膠着状態に陥ると、ドイツ軍は食糧を輸入に依存しているイギリスをたたくための戦略的な海上決戦を挑んだ。それが1915年5月のユトランド沖海戦であった。ドイツ艦隊は善戦し、イギリス艦隊により多い損害を与えたが、海上封鎖網を打開するまでには至らなかった。そこで考えられたのが、無制限潜水艦作戦であった。これはUボートといわれた潜水艦が、警告なしに商船に対しても魚雷攻撃をするというもので、1917年2月から着手した。これは想定以上にイギリスに打撃を与えたが、無防備の商船に対する攻撃がルシタニア号事件のように第三国、特に
アメリカ人犠牲にしたことから、アメリカ参戦誘発し、結果的にドイツにとって大きなマイナスとなった。イギリスは潜水艦攻撃から商船を守るため、ロイド=ジョージ「護送船団方式(コンボイ=システム)」を考案し、それからは被害を激減させることに成功した。
 なお、地中海でもドイツ海軍とフランス・イギリス海軍が交戦し、さらに黒海ではロシア海軍とオスマン海軍が戦っている。1917年2月にイギリスは日本海軍の地中海への派遣を要請、日本海軍は巡洋艦3隻、駆逐艦12隻を派遣した。駆逐艦1隻の他数隻が撃沈され、78名が戦死したが、Uボート4隻を撃沈した。

 ヨーロッパ以外での戦闘

 第一次世界大戦はほとんどがヨーロッパの、独仏と独露国境、バルカン半島、イタリアとオーストリアの国境付近が戦場となった。しかし、オスマン帝国や日本が参戦したため、アジアにおいても戦場となるところがあった。
中東の情勢 オスマン帝国が同盟国側で参戦したためイギリスはいち早く1914年にエジプトの保護国化をオスマン帝国に通告してスエズ運河を確保し、カイロを拠点にパレスチナへの進出を図った。1916年6月、アラビアの紅海沿岸のヒジャズ地方でアラブの族長フセインが反乱を起こしたので、イギリス海軍の情報将校トーマス=ロレンスが派遣され、ロレンスはアラブ軍の顧問格でそのゲリラ戦を指導した。ロレンスはアラブのゲリラを率いてオスマン軍の鉄道を破壊するなど後方攪乱に飛び回り、1918年9月まで活動した。これが有名な〝アラビアのロレンス〟である。
日本の参戦 開戦直後の1914年8月、イギリスは日本に対して東シナ海ドイツ艦隊攻撃してほしい」と要請した。日本は日英同盟にもとづいてただちに出兵を決定したが、日本の中国・太平洋方面への進出を警戒するアメリカがイギリスに要請中止するよう申し入れたたため、イギリスはそれに従ってドイツ艦隊攻撃要請を取り消した。しかし日本は第一次世界大戦への参戦を強行、8月15日にドイツに対する最後通牒を出し、回答がないとして9月2日に山東半島に上陸、11月までに膠州湾入口のドイツの青島要塞を陥落させた。この時、日本飛行機が初めて実戦に参加した。さらにドイツ領太平洋諸島のマーシャル、マリアナ、パラオ、カロリン諸島を占領した。
 こうしてドイツの中国・太平洋の利権を接収した日本は、1915年1月中華民国の袁世凱政府に対し、二十一カ条要求をつきつけ、欧米諸国が世界大戦で動きが取れない中、
中国本土への帝国主義的侵略開始した。日本露骨な大陸での利権拡張にはイギリス・アメリカは警戒したが、日本を対ドイツ戦争にとどめておく必要から、その中国に対する要求を黙認し、抗議しなかった。

(3)第一次世界大戦の終結

 1917年、4月のアメリカの参戦と、11月のロシア革命(ソヴィエト政権の成立)によって転機を迎え、1918年10月にドイツで革命が起こり皇帝が退位、11月11日に停戦となった。

 戦局の転換

 開戦当初、列強の首脳は短期に決戦を挑んで、適当な時期に収束させるつもりであったが、1914年9月のマルヌの戦い以降、その目論見は崩れ、引きに引けない膠着状態に陥ってしまった。そのまま一進一退が続いたが、1917年に入り一挙に情勢が変化した。
ロシア革命 その動きの一つはロシア革命(第2次)の勃発である。二月革命(三月革命)でツァーリ政府が倒され、臨時政府とソヴィエトの二重権力となると、臨時政府は連合国との関係を重視して戦争継続を表明し、ソヴィエトはそれに反対した。ドイツは密かにスイスに亡命中のソヴィエトの指導者レーニンがドイツ領内を通行できるように手配(封印列車)し、それによって4月に帰国したレーニンは四月テーゼを提示して、ボリシェヴィキ革命を指導した。レーニンの指導のもとで始まった反戦・反臨時政府の武装蜂起に対しては、臨時政府は前線から軍隊を呼び寄せてそれを弾圧した。7月に権力を掌握したケレンスキーも戦争続行を表明したが、前線兵士の中には戦争忌避の動きが強くなり、戦線から離脱する兵が多くなった。ボリシェヴィキが武装蜂起して十月革命(十一月革命)が成功し、ケレンスキー内閣は崩壊、11月8日、レーニンは平和についての布告を発表して、交戦国すべてに対し無併合・無賠償による即時平和を提唱した。連合国からはすべて無視されたが、ドイツは好機と考え1818年3月、両者はブレスト=リトフスク条約を締結して単独講和を成立させ、ソヴィエト=ロシアはポーランドの独立その他の大幅な領土縮小を認めた。
アメリカの参戦 もう一つの動きはアメリカ合衆国の参戦である。アメリカは、伝統的な孤立主義の外交原則を守り、大戦勃発当初は中立を表明した。その一方、イギリス・フランス・ロシアには盛んに武器物資を援助し、実質的には連合国に大きく肩入れしている状態であった。ただ国内にヨーロッパの戦争でアメリカ青年を流すべきでないという声も強く、ウィルソン大統領も戦争には踏み切れずにいた。ところが、1915年5月のルシタニア号事件を機にドイツの無制限潜水艦作戦に対する非難が強まり、ウィルソン大統領は参戦を決意、1917年4月に議会の同意を得てアメリカ合衆国の参戦に踏み切った。アメリカ軍がヨーロッパ戦線に派遣されたことによって戦局は決定的に連合軍有利に転換した。またウィルソン大統領は、1917年11月、レーニンが「平和についての布告」を発表すると、それに対抗して戦争目的の明確化と戦後処理の原則を示す必要に迫られ、翌年1月18日に十四カ条を発表した。
シベリア出兵 社会主義を掲げるソヴィエト政権の成立は資本主義諸国にとって脅威であり、またその戦争からの離脱は特に西部戦線でドイツと戦っているフランス・イギリスにとって痛手となる。そこで連合国はロシア革命への干渉を計画し、1918年3月には英仏米三国軍がムルマンスクに上陸、反革命政権を支援する対ソ干渉戦争を開始した。4月には日本軍がシベリアのウラジオストックに上陸した。5月にはロシア領内に捕虜となっていたチェコスロヴァキア軍団がシベリア経由で西部戦線に移動する途中でボリシェヴィキと衝突、英仏米日8月シベリア出兵に踏み切った。

 戦争の終結

 ドイツ軍はロシアとの単独講和によって東部戦線の兵力を西部に振り向けたが、1918年8月8日、北フランスのアミアン付近で、アメリカ軍が参加した連合軍によって撃破され、それを機にドイツ軍の後退が始まった。バルカン方面でも、ブルガリアが9月末に停戦に応じ、オーストリア軍はサロニカからの連合軍の北上とイタリア軍の攻勢に対して戦意を失い、オスマン帝国軍もイギリスのパレスティナ進出とアラブの反乱で苦しむ中、10月にそれぞれ停戦に追いこまれた。
 ドイツ革命の勃発 1918年11月3日、ドイツで無謀な出撃命令拒否した海軍兵士がキール軍港の水兵反乱を起こし、それがきっかけで各地で兵士・労働者が蜂起するドイツ革命勃発して、皇帝ヴィルヘルム2世はオランダに亡命、帝政が倒された。ドイツ共和国の臨時政府を握った社会民主党のエーベルトは、11月11日、フランスのコンピエーニュの森で連合国と休戦協定を結び、戦争を終わらせた。
 ドイツでは旧社会民主党左派の結成したドイツ共産党が1919年1月に蜂起し、一気に社会主義革命への転換を目指したが、臨時政府によって鎮圧され、2月に資本主義・議会主義を掲げるヴァイマル共和国:ワイマル共和国が成立した。

 Episode 〝背後からの一刺し〟

 この時、ドイツ陸軍はまだ西部戦線のフランスでとどまっており、連合国軍がドイツ国内に進撃していたわけではなかった。参謀総長ルーデンドルフは冷静にアメリカ軍の兵力を計算してドイツ軍に勝ち目がないと停戦を判断したが、軍の大物ヒンデンブルクをはじめ軍人はまだ負けていないという見方が強かった。にもかかわらず降伏することになったのは国内での革命騒ぎによって〝背後から一刺し〟されたためだという意識が彼らには強く残った。この意識は、ヴェルサイユ条約での敗戦国ドイツに対する過酷な要求に対する反発とともに、後にドイツに再び軍国主義が燃えさかる火種となって残った。

 犠牲者と記念日

 第一次世界大戦の戦死者802万人負傷者2122万人民間人死者664万人とされている。戦場は主としてヨーロッパ大陸であったが、初めての世界大戦として、重い数字を残している。
 大戦が休戦(後のパリ講和会議で講和が成立)となった11月11日は、交戦国であったフランス、ベルギーなどでは現在は終戦記念日として祝日となっている。アメリカ合衆国では、この日は退役軍人の=ベテランズデー(ベテランとは退役軍人のこと)として祝日とされ、大統領がアーリントン国立墓地で無名戦士の墓に花を捧げる習わしとなっている。

(4)第一次世界大戦の結果と影響

 パリ講和会議が開催され、講和条約としてヴェルサイユ条約が締結して正式に第一次世か大戦は終結した。の第一次世界大戦の結果とそのもたらした影響の要点をあげると次のようになる。

 パリ講和会議は1919年1月18日から始まり、6月28日にヴェルサイユ宮殿でヴェルサイユ条約が締結されて終わった。この会議には日本を含む連合国代表が参加したが、イギリスフランスアメリカ三国主導権を握り、敗戦国ドイツなどは参加できず、また革命直後のロシア・ソヴィエト政府も参加できなかった。

 第一次世界大戦のもたらしたこと

 第一次世界大戦は連合国(協商国)側の勝利として終わったが、直接的な被害だけでなく、戦勝国・敗戦国を越えて大きな影響を及ぼした。人類最初の世界大戦によってもたらされた変化をまとめると次のようになる。

・旧帝国の消滅

 第一次世界大戦の結果として、ドイツ帝国(ホーエンツォレルン家)、オーストリア=ハンガリー帝国(ハプスブルク家)、ロシア帝国(ロマノフ家)という中世以来の専制君主制国家が崩壊した。また、オスマン帝国でも大戦末期にトルコ革命が始まり崩壊した。そのため、オーストリア=ハンガリー帝国、ロシア帝国、オスマン帝国に支配されていた東ヨーロッパやバルカン半島の諸民族が独立を達成することとなった。

・イギリスの没落

 第一次世界大戦の結果、イギリスは戦勝国ではあったが、戦争のために疲弊し、また植民地でも反英独立運動が活発になってその統制は弱まり、19世紀中ごろからの「大英帝国」の繁栄、第二帝国またはパックス=ブリタニカといわれた状況は終わりを告げることとなった。

・社会主義国の出現

 第一次世界大戦の末期に、ロシア革命が勃発し、世界最初の社会主義国家としてロシア(ソヴィエト=ロシア。ソ連の成立は1922年)が出現した。一方で資本主義を繁栄させたアメリカ合衆国を中心とした陣営は、「自由主義」を掲げて、社会主義勢力の拡大や革命の伝染を警戒するようになった。

・アメリカの繁栄

 途中から第一次世界大戦に参加したアメリカ合衆国は、戦後債務国から債権国転換し、世界の強国にのし上がった。戦後の1920年代は「永遠の繁栄」と言われる最盛期を迎える。

・東ヨーロッパ諸国の独立

 東ヨーロッパの大国に従属していた諸民族が、アメリカ大統領ウィルソンの「民族自決」の理念に沿って、戦後に独立を達成した。ハンガリーとチェコスロヴァキアはオーストリアから分離独立した。またオーストリア領であったボスニア・ヘルツェゴビナはセルビア・モンテネグロと共に新たにユーゴスラビアを建国した。またポーランド、バルト三国(エストニア・ラトヴィア・リトアニア)、フィンランドがロシア帝国からの独立が認められた。

・植民地の民族主義運動の激化

 帝国主義国家間の矛盾が世界戦争に行き着いたことから、それまで植民地として支配されてきたアジア・アフリカの諸民族の中から、民族の独立を求める運動が本格化した。特にイギリスの支配を受けていたインドでのガンジーらによる新たな独立運動の展開、西アジアのアラブ諸民族の自立の動き、中国の五・四運動や朝鮮での三・一独立運動に見られる動きなどが重要である。また大戦後の民族独立運動は、ロシア革命によって登場した社会主義運動とも結びついていく。

・新たな武器と総力戦の始まり

 第一次世界大戦は戦争の規模がかつて無かっただけでなく、その質を大きく変化させ、戦争の犠牲非戦闘員にも直接及ぶという現代の戦争形態の始まりとなった。特に、航空機毒ガス戦車潜水艦といった新しい武器の出現は大量殺戮非戦闘員を巻き込む現代戦争の特色を見ることができる。また、戦争が一部の職業的な軍隊によっておこなわれるのではなく、国家の経済や国内体制、世論の結束なども求められる総力戦となったことも、現代の戦争の特質であった。

・勢力均衡論から集団安全保障へ

 今、第一次世界大戦から学ばなければならないのは、列強がそれぞれ軍事同盟を結んで、利害の対立する陣営との勢力均衡をはかる国際政治のあり方が破綻した、ということである。ヨーロッパのイギリス・フランス・ドイツ・イタリア・ロシアという五大国がその帝国主義的な利害対立から、かつての普仏戦争のような戦争がいつ起こるかわからない状態の時、バルカン問題という先鋭的な対立点が表面化した。そのとき各国が戦争回避のために採ったのがビスマルク以来の勢力均衡論であった。しかも二国間の軍事同盟や領土・植民地分割協定は多くは秘密条約とされた。このような勢力均衡論秘密外交が、サライェヴォの銃声によって破綻したのが第一次世界大戦であった。
 そして大戦後の新しい国際秩序は、ヨーロッパ五大国以外のアメリカ合衆国が主導権を握った。ウィルソンの理念は、
国際連盟という国家間協議を作り、秘密外交を排して国家間の紛争を解決していこうという集団安全保障理念によってもたらされた。これが、千数百万という犠牲を出した世界戦争という悲劇から人類が学んだことだ。ただ不幸にしてウィルソンの理念は、アメリカ議会否定してアメリカが加わらなかったこと、一方で新たに登場した社会主義国ソヴィエト=ロシアをその集団に加えなかったことでうまくいかなかった。また敗戦国ドイツに対する、過酷な賠償金を主とする講和条件も適切ではなかった。そのような欠点から、この戦争には「第一次」という名称が後につけられてしまうことになったが、一度世界集団安全保障理念世界平和維持しようと試みたことは軽視すべきではない。そしてその後「第二次」を防げなかったという失敗があったからこそ、現在、「第三次」の勃発を曲がりなりにも抑止することができている。間違えてはならないことは、「集団的自衛権」ではなく「集団安全保障」ということだ

第一次世界大戦 世界史の窓
http://www.y-history.net/appendix/wh1501-011.html

集団安全保障

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 現在の主な安全保障同盟
  NATO, CSDP
  SCO, CSTO
  SADC
  PSC

 集団安全保障(しゅうだんあんぜんほしょう、: collective security)とは、潜在的な敵も含めた国際的な集団を構築し、不当に平和を破壊した国に対しては、その他の国々が集団で制裁するという国際安全保障体制の一種である。

 集団安全保障とは地域的または全世界的な国家集合を組織し、第一に紛争を平和的解決すること、第二に武力行使した国に対して他の国家が集合的に強制措置を行うことによって、侵略阻止し、国際的な安全を確保する国際安全保障体制をいう。これが現実的に実現するためには以下の条件が必要であると考えられている。

  1. 集団安全保障機構が構成国よりも優れた軍事力を有すること。
  2. 構成国、特に先進国が、自国の国益よりも国際社会の利益を重視して、機構の強制措置に協力すること。
  3. 維持すべき現状(どのような平和を維持すべきか)について、また平和を破壊する行為をどのように認定するのかについて、構成国、特に先進国が共通認識を持つこと。


日本は、集団安全保障への参加について、武力の行使や武力による威嚇を伴う場合は、憲法9条が許容する「必要最小限度の範囲」を超えるため許されないとの解釈を取っている。一方、集団安全保障「国連加盟国の義務」であり、憲法上は制約されないと総理大臣私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」は主張している。

 アメリカという国に疑問をもち、改めて日本がアメリカの属国であることを痛感する。原子爆弾を2個も投下して、一般人である日本国民を大量殺戮しておいて、三千人以上を生きたまま人体実験して殺した731部隊を免罪し、厚生省や医学界の頂点に据えて、現在も生物化学兵器の開発研究にあたらせている。大学病院でマルタにされるのは日本人である。

● 対面教育・生演奏・舞台・現地留学

 

 赤ん坊は母親に抱かれて、母親の胸に耳を押し当て、鼓動を揺り籠に、お乳が血となり、肉になるように、言葉が身体と一体になる。
 そのように英語の対面教育は、腹の底に響く生演奏・汗の飛び散る舞台・スポーツ選手の現地の空気を吸うための留学と同じで、講師の息づかいと一緒に飛び込んできた英語が骨の髄まで叩き込まれる。テープ・テレビとは迫力が違う。言葉では表現できない「その迫力」が身につく。
 理論を飛び越えた「英語の瞬発力」である。頭から噛みついた英語を、日本語を介さずに、読み・書き・聴き・話す、英語を英語で理解する実践力がついてくる。
 日本語の語順に並び替えて後戻りしない。先ずS+Vを見つける。1つのかたまりとして、上から(左から右に)どんどん節(S+V)をつかんでいく。S+V、S+V、S+Vのごとく文章を続ける。そうやって、「何を文頭に持ってくるべきか? どのようにつなげていったらいいか?」を、脳が瞬時に反応するようになる。教室の
集中力で英語が身につく。喉からではなく、アレックス先生のお腹の中の声が、ブルンブルン、ずしんずしんと振動して、真っ直ぐに、生徒の耳に聞こえてきます。

 「AERA」18.3.5 NO.11の大特集(英語の実力はAIで3割増)-必要なのは「手直し力」 グーグル翻訳の強み・弱みを知り「協働」する (1)point主語抜けに注意 (2)日本語と英語を行ったり来たりさせて、日本語を手直しする
 Uemura先生の授業でこれをやったら、「私がこんなに髪を振り乱して教えているのに、どうして、わかりませんか」と、両手にバケツを持って、廊下に立たされる。
 商談は最後は現場のスタッフ(社長)の
気の利いた一言で決まる。もたもたしていると他社に仕事をとられてしまう。
 アレックス先生とUemura先生に鍛えられたおかげで、私は1回で期待する英文を引き出す日本文を入力することができるようになりました。第一に「英語の基本」の修得です。
 対面教育で
時期を得た「間違いの訂正・的確な表現」をものにすることができなければ、現代は食っていけないスピード時代である。
   角川博さんがスカウトされる前、私の知人と博多の中州で踊ったり、歌ったりしていた。そんなことがあり、お茶の時間に角川さんの演歌をよく聞きます。
 このところ作詞:千家和也 作曲:伊藤雪彦の「ひとり三次へ」が気に入っています。この歌はCD化されていない名曲です。その最後のところ
 
雨ふりやまない 河原の音色
 
あなたの女が三次(みよし)にいます
 あなたの女の「女」はgirlでは・・・ちょっと。するとトム・ジョンズのDelilah(1968)に丁度いいのがあったのでは・・・ありました。
 
She was my woman ・・・・・
 My My My Delilah
 Why Why Why Delilah

 すると、Your woman is in Miyosi.
 
Your womanSで、isVで文法は間違っていない。 しかし、情感がからしきりない。これでは輸出しても売れない。いつの日か「Japanese EnKa Songs」を輸出するビジネスをやってみたいです。それにはあと3年はアレックス先生とUemura先生に鍛えてもらわなくてはなりません。英語の基礎を築くまでは、急がば回れです。

● 「北九州文化」発信45周年

 

   

 外国語には英語の他に韓国語・中国語・フランス語・スペイン語・イタリア語のクラスがありますが、自分が受講している英語のクラスだけご紹介させていただきました。

 アレックス先生は気さくというより、外国人という違和感がなく、自然体で親しみをもって接することができます。それは先生が頭脳明晰で、日本人のこと、日本文化、日本社会について、よく勉強されておられるからと思います。この生徒はどこがわかっていないのか、英語で「どいうこと」を言いたいのか、的確に読み取ってくださいます。私への質問。「彼らの言うことが60%~70%わかりますか」直ぐに「60%」と理解度を10%落とされました。意地悪だなと思いましたが、60%が見事に正解です。教室では「はい・いいえ」も「yes・no」になりますが、ほんわかした雰囲気で、2コース続けて2時間の授業を受けても、まったく疲れはありません。そうやって自然、自然に英語に馴染んで、そのうち頭をひねりまわさなくても、楽に話すことができるようになるのではないでしょうか。クラスメイトもサポートしてくれます。私がtwentyの発音がしっかりできてなくて、先生が3回も5回も手本を示してくれても、できないでいると、隣の席の女性が「と言えって」(トウンティ)と教えてくれました。私の感覚では普段「嫌だな」(どぎつい)と思っているくらいに、強調しなければ、ネイティブに通じない箇所(場面)があります。これは理屈ではなくて、アレックス先生の腹の底から出てくる太い声を頭から浴びて身体が覚えます。twentyが身につきました。以後、寝言でも「トウンティ」と言っております。クラスメイトの怒鳴る声も有り難く頂戴しています。

 Uemura先生はとにかくしつこく、これでもか、これでもかと英文法の基本を叩き込んでくださいます。今度は「一生忘れないだろう」と思うくらいに繰り返し指導してくださいます。これで忘れたら、私は「ほんものの馬鹿だ」と納得できます。だからと言って、堅苦しいことはなく、笑い転げているうちに2時間があっという間に過ぎてしまいます。教育するために、先生になるために生まれてきたような方です。人生の先輩として学ぶことがいっぱいです。ゴールド、真っ赤なマニュキアをなさり、それがとてもお似合いになるチャーミングな女性です。アレックス先生のクラスメイトが言っていましたが、「中高年になると、オシャレをしないと、周囲の人に認知症が発症したかと思われる」ということで、Uemura先生から、生徒はよい刺激をもらっています。2時間立ち詰めの授業は大変な重労働で、痩せておられるので、洋服も、何を着られてもお似合いです。クラスメイトに役者の卵がいて、ちょくちょくエキストラに駆り出され、先週も、お土産に「東京バナナ」をいただきました。美味しかったです。広島の「生もみじ」はモチモチしています。お菓子は全国区で幸せの輪が広がります。クラスメイトには車椅子の若い女性がいますが、毎週、ヘルパーさんがついて、元気に出席されます。彼女は意欲があり立派です。皆感心しています。

 三瀬先生の「英語で歌おう」では、チャリティーコンサートをするのですが、私が歌うと「金を出せ」と言われて、足をひぱるので、昨年の暮れで受講をやめました。数日前、三瀬先生からお誘いのお電話があり、4月の初めに、先生とクラスメイトと、下関の割烹料理店で昼食をとり、城下町長府を散策し、門司港まで遊びに行くことになりました。2020年のオリンピックでも発表会をなさるそうで、私にも出るように言われましたが、私が出ると「財布ごと金を出せ」と言われるので辞退します。三瀬先生も教育熱心で、授業前30分間、私ともう1人の新入生に腹式呼吸と手鏡で口の動きを見ながらの特訓をしてくださいました。ひょっとこのように口を突き出すことを指導され、そんな顔を見られているクラスメイトの間では、恥ずかしがることは何もありません。
    受講は知識の自分への投資だけでなく、お友達もできて、ひきこもりの解消になります。「虐め」は絶対にありません。絵はがきもクラスメイトがくださったのですが、猫のカーテン止めの縫いぐるみ、猫缶までお土産にいただき、我が家の猫も喜んでいます。親友が「生活範囲も広がり、人間関係も広がり、生活に幅と張りができる」と喜んでくれます。ひきこもりも、自分で努力しなければ、ひきこもり状態から脱出できません。せっかく生まれてきたのだからと、残りの人生を精一杯生きようと、頑張っている人ばかりです。誰にも何の遠慮も要りません。私は極度の疲労で、フラダンスの先生からいただいたバナナだけ食べて帰ったこともありますが、まあ、食い逃げですが、叱られたことはありません。まだまだ青春を謳歌できます。受講してみてください。
 
 
 

 検察は第116回 国有財産近畿地方審議会 日時:平成22年2月22日 場所:近畿財務局8F大会議室」を調べろ。安倍晋三総理が主犯。計画的犯行である。財務省の前理財局長、佐川宜寿前国税庁長官の辞任はトカゲのしっぽ切りである。犯罪の動機が希薄。なきがごとし。
(「第116回 国有財産近畿地方審議会(議事録)」はインターネットで見ることができます。)