2018年01月23日

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Prime Minister Abe
can go to the battlefront first.


 二つの世界大戦は「何でそんなことをせなあかんかったのか」の30年間だった。

 兵士・軍人(Soldier)ではなくて、普通の生活をしていた国民(The people)戦場で戦うようになったのは、当初の年内に終わると思われていたものが、長期の総力戦Total warfare)となった第一次世界大戦World War I)が初めてだった。総力戦は経済力・政治力、国民の心理までをも動員する。「国民」は否応なしに「国家」A nation)と関わるようになった。

 集団的自衛権Right of collective self-defense)の行使を可能とする安全保障関連法Security related law)が2015年9月19日未明、参院本会議で賛成多数により、可決、成立し、2016年3月29日0時に施行された。

 アメリカが操作する「戦犯(売国奴)岸信介の孫で属国ロボットの安倍首相」が目指す「2020年までに 憲法9条Constitution Article 9)を改正Amendment)し、自衛隊存在Presence of the SDF)を明文化Clarification)」が成れば、新日米安保条約(日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約:New Japan-US Security Treaty1960)の枠内で、日本国がアメリカの戦場に芋づる式に参戦し、自衛隊に続いて国民も戦場に行くことになる。自衛隊だけが行けばよいのではない。

 第一次大戦で、イギリス・フランスは、自国の植民地から資金や物資だけでなく、労働力兵員を動員した。中国人が船から危険な爆弾の荷下ろしをやっているフィルムも残っている。

 1930年代末から創氏改名など同化政策が強められた朝鮮では、第2次世界大戦開戦後、日本の支配が過酷さを増し、労働力不足を補うために、労働者が日本本土へ強制的に連行され、戦争末期には徴兵制も適用された。

 今日は我が身。憲法に自衛隊の存在が明文化されれば、アメリカの国民に代わって、属国日本国民戦場に動員されることは、火を見るより明らかである。もはや言い訳はできない。逃げ道はない。安倍首相に憲法改正をさせなければ、あとにこれ程の「アメリカの言いなりになる馬鹿」はもういない。安倍首相が最後だ。アメリカは本気だ。

 安倍首相は安保関連法案が成立した時点で「国民に誠実に粘り強く説明を行っていく」と発言し、2018年1月4日、三重県伊勢市の伊勢神宮で年頭の記者会見を行い「今年こそ、憲法のあるべき姿を国民に提示し、憲法改正に向けた国民的な議論を一層深めていく」と述べた。しかし、それはアメリカが安倍首相空っぽ頭蓋にインプットした「その場限りの嘘」(時間稼ぎの嘘)であることは明白である。そうやって、ダラダラと時間が過ぎ、国民が気がついた時には、憲法9条改正が成り、国民が戦場に立っている。

 第一次世界大戦からこれまでの世界史を勉強すればわかります。高校の世界史の教科書(改訂版)「詳説 世界史 世界史B」(山川出版社)で十分です。
 最新世界史図説「タペストリー」(帝国書院)には写真がたくさん掲載されているのでわかりやすいです。


目 次

● 第一次世界大戦の戦時外交と総力戦

 第一次世界大戦は、植民地従属地域をめぐる列強間の帝国主義的対立を背景に、イギリスドイツ覇権争いからはじまった(分捕り合戦)。 


 帝国主義諸国間の覇権争いからはじまった第一次世界大戦は予期しない長期化・物量化して総力戦(国力を戦争に向けて動員する体制:軍需工業優先の産業再編 女性青少年軍需産業への動員 食料配給制 厳しい統制経済)になった。イギリス女性兵士トラック運転手が登場。日本の第二次世界大戦下の社会状況が先行している。

 第一次大戦勃発後、ドイツに宣戦した日本は、中国内のドイツの租借地膠州湾(青島)と太平洋上のドイツ領諸島を占領した。さらに1915(大正4)年1月、中国に対して山東のドイツ利権の継承など二十一カ条の要求をつきつけた。袁世凱政権は、中国の主権を無視するものとしてはじめは拒否したが、軍事力を背景にした日本の圧迫のもとに、主要な要求の承認に追い込まれた。

●大戦の原因
 サライェヴォ事件(1914年6月末)
 オーストリア皇位継承者=フェルディナンド夫妻がボスニアの州都サライェヴォでセルビア人の民族主義者に暗殺された。オーストリアがスラヴ系民族運動をおさえる好機とみて、ドイツの支持を得て7月末セルビアに宣戦布告すると、ロシアはセルビア支援を表明した。

●各国の参戦状況
 8月初め、ほかの列強諸国も
同盟協商関係(集団的自衛権)に従って戦った。

同盟国側  協商国(連合国)側 
ドイツ オーストリア オスマン帝国 
ブルガリア 
フランス ロシア イギリス 日本 イタリア
大戦後期に
アメリカが加わる。

 反戦をかかげた第2インターナショナルは、参戦国の社会党の多くが自国政府を支持したため事実上解体し、主要参戦国では、諸政党が結束して政府を支持する挙国一致体制が成立した。

 戦争で勝利すれば労働者の給料があがる(戦争経済)。戦争に協力する者とそうでない者に差をつける。国内で内輪もめしている時ではない。背に腹は代えられない。←社会党は戦争の抑止力にならなかった。

 両陣営とも結束をかため、中立国を味方に引き入れるために、戦後敵領土植民地の分配(山分け相談)を決めた秘密条約を結んだ。また双方とも自治や独立を約束して植民地や民族独立運動を支援しようとした。
 
弱い立場の人々が戦争協力して自治獲得する。インド兵が大量に戦線に送られ多数の戦死者を出すなかで、イギリスは民族自決という国際世論の圧力に押されて自治を約束した。

 イギリスは、アラブ民族とユダヤ人国家建設運動の双方に、パレスチナを含む地域での独立支援を約束して協力させ、現在に至る両者の紛争の原因をつくった100年前にイギリスがまいた火種が禍根を残す。主にユダヤ系資本を利用するのが目的だった。

 しかし独立させたら山分けはできない。1つの土地で3つの約束。

 イギリス三枚舌外交
 
1.サイクス・ピコ協定
 2.フセイン・マクマホン協定
 3.バルフォア宣言

 長引く戦争によって、イギリスは戦費が不足だった。戦争を早く終わらせたかったイギリスは、味方同士や中立国との間で、複雑な密約を交わすことになった。
 アラブの反乱:アラブの反乱を指導したイギリス人が「アラビアのロレンス」として有名なトーマス=エドワード=ロレンス(イギリス軍の情報部の将校・工作員)であった。アラブと祖国イギリスの狭間で、ロレンスの心は激しく葛藤した。
 イギリスにとってアラブ人のトルコ帝国からの独立運動は、第一次大戦優位のための外交政策の一つに過ぎなかった。

●大戦の転機
 
アメリカ合衆国の参戦(1918年)
 参戦の理由:
参戦しないと借金を取り返すことができない。
 対ドイツ参戦(ウイルソン大統領)

ドイツ 馬に乗って戦場に行った。
フランス 小銃を持って戦場に行った。
塹壕。 ベルダンの戦い(死者20万人)。
腕時計が活用される。
敵は雨だった。 

●科学技術が被害を大きくした。
 新兵器(核兵器以外の大量破壊兵器)の登場
 
航空機毒ガス戦車(キャタピラで走る効果の高い武器)・潜水艦

●休戦協定
 1918年11月11日 ドイツ共和国政府は連合国と休戦協定を結び、大戦はおわった。

●アメリカ合衆国の繁栄
 大戦中、合衆国は連合国に
物資借款(戦債)を提供して大きな利益をあげ、戦後は債務国から債権国に転じて、国際金融市場の中心になった。戦後、合衆国はヨーロッパへの政治的関与を避けたが、軍縮や国際協調を推進するうえで指導的役割をはたし、ドイツの経済復興や中国の民族運動を支援した。しかし合衆国は、イギリスフランスなど旧連合国の債務返済免除要請拒否し、さらに、国内市場を高関税政策によって守ったので、世界の富が合衆国に集中する構造がつくられた。
 アメリカ合衆国は戦場を稼ぎの場とする「
武器輸出戦費貸付戦争立国」である。
 国内では、大企業を中心にした経済を支援する政策がとられ、1920年代のアメリカ経済は「永遠の繁栄」とよばれる一大好期をむかえた。
 一方では、伝統的な白人社会の価値観が強調されて禁酒法がしかれ、1924年に成立した移民法では、★
日本をふくむアジア系移民禁止されるまど、保守的な傾向もあらわれた。

●画像

 私が男だったら海軍に入るのに


アフリカ兵士フランス兵士共闘


 戦争が終わると、イギリス政府植民地に対する態度はまた冷淡になった。

  各国経済界の専門家の提案(ドーズ案)をうけて、連合国はドイツの賠償支払額を当面軽減し、アメリカ資本によるドイツ経済復興を決めた。1929年(世界恐慌)、総額を圧縮し、支払い期間も延長した最終支払い(ヤング案)が決定され、32年のローザンヌ会議で賠償総額は30億マルクに減額された。しかし、ナチス=ドイツは賠償それ自体を否定した。

 第一次世界大戦で、
戦争立国アメリカ戦争マフィア体制が確立。アメリカは世界のどこかで常時、戦争がなければ経済が成り立たない国である。戦争はアメリカの主力商品である。 

■ 沖縄県のアメリカ軍の駐留に通じる

 イギリス人の勝手な論理で、イスラエルの建国は、パレステイナ先住民の存在が無視されました。既成事実が作られて強引に維持されると、それを元に戻すことができません。歴史的既成事実が、居座りつづけます。返せという言い分があっても、「実効支配」は、でなくては変わることはありません。

 世界中、どの国も皆、自国第一です。ご立派な国は存在しない。アメリカの正体もわかり、アメリカに対する認識も変わったのではないでしょうか。アメリカは民主主義・人権の一線級の国ではない。むしろ逆である。だから絶対に憲法9条に自衛隊の存在を明文化させてはならないと考える。アメリカに日本国と日本国民が食い物にされ、餌食にされるだけです。

 

アメリカ独立戦争

 原因は、本国イギリスの税金のとり方などに不満を抱いたアメリカの人々が立ち上がったのがきっかけですが、その経過を少し詳しく見てみましょう。まずは分かりやすいように、アメリカ植民地時代のお話からです。

 アメリカには、もともとヨーロッパ人はいませんでした。
先住民インディアンたちが暮らしていたのですね。しかし、大航海時代によりヨーロッパの国々がこぞってアメリカへと渡っていくことになります。
 スペイン、フランス、オランダ。スウェーデンもアメリカに植民地を作っていましたよ。そして、最後にイギリス。
 18世紀の幾度にわたる戦争の結果、その地をほぼ手中に収めたのがイギリスでした。

 しかし、イギリスも手放しで喜べる状況ではないのです。特にフランスとの戦争ではお金をいっぱい使ってしまった・・・。そこで、「アメリカに住む人々からしっかり税金をとって使った分+αで回収しなきゃねっ」ってことになります。
 1764年には
砂糖法を発布します。植民地に輸入する砂糖に関税をかけたのです。その1年後の1765年には印紙法。アメリカで刊行される印刷物すべてにイギリスの印紙を貼ることを義務付けます。
 この印紙法にはアメリカに住む人々が激怒!特に新聞社などは印紙法なんてやられたら大打撃ですから大いに怒るんです。すると、アッという間に反感の気運が高まります。新聞社などは発言力が強いですからね。あと弁護士なんかも利益を脅かされて怒るんです。そして有名な言葉が生まれます。
「代表なくして課税なし」
 当時のアメリカ人には本国イギリスの議会に議員を派遣する権利がなかったのです。権利がないのだから、納税の義務もなし!という訳ですね。ちなみに英語では、
「No taxation without representation」
 

アメリカ独立宣言

 1775年に独立戦争が始まり、1776年7月4日にはアメリカ独立宣言が発布されます。
 では、どこから独立したのか?イギリスですね。当時、イギリスによって統治されていた13の植民地が独立を宣言した文章がアメリカ独立宣言です。
 しかし、この時点では、現在のアメリカ合衆国の広大な大地がすべてアメリカとして独立したわけではないですよ。
イギリス統治下13植民地(マサチューセッツ・ロードアイランド・ニューハンプシャー・コネティカット・ニューヨーク・ニュージャージー・ペンシルヴェニア・メリーランド・デラウェア・ヴァージニア・ノースカロライナ・サウスカロライナ・ジョージア)だけですので、東の方だけです。後にイギリス、フランス、スペイン、メキシコから買収したり割譲したりして今のアメリカ合衆国の広さになる。

● 第一次休戦から第二次開戦へ

 

 ヨーロッパ列強は、領土や利益配分を中心とする秘密外交からぬけだせなかったが、ソビエト=ロシアやアメリカは新しい戦後国際秩序の理念を提唱して、人びとの期待を集めた。

 
ヴェルサイユ体制:1919年1月、連合国代表が集まりパリ講和会議がひらかれた。講話の基礎になる原則は、アメリカのウイルソン大統領が18年1月に発表した十四カ条(秘密外交の廃止、海洋の自由、関税障壁の廃止、軍備縮小、ヨーロッパ諸国民の民族自決、植民問題の公正な解決、国際平和機構の設立など)であった。
 ウイルソンは自由主義経済のもとで戦争を防止する国際秩序を実現して、ロシア革命の社会主義に対抗しようとした。
 しかし、フランスのクレマンソーやイギリスのロイド=ジョージは、植民地などの既得権益を手放さず、敗戦国にもきびしい態度でのぞんだので、この原則は部分的にしか実現しなかった。
 民族自決権の適用が旧ロシア・オーストリア・オスマン帝国下の諸民族独立に限定され、
ドイツ租借地植民地戦勝列強国分配されたことは、中国をはじめ、アジア・アフリカの人びとを失望させた。
 1919年6月、パリ郊外のヴェルサイユ宮殿で、ドイツとのヴェルサイユ条約が調印された。
 ドイツはずべての植民地を失い、アルザス・ロレーヌをフランスに返還し、ポーランドなど周辺国に国境地域を割譲したほか、ラインランドの非武装化、軍備制限、巨額の賠償金支払い(1921年に、1320億金マルクに決定)を課せられた。
 講和条約で、ウイルソンの提案した国際連盟の設置も決まった。世界の恒久平和をめざす史上初の大規模な国際機関で、スイスのジュネーヴに本部を置いた。
 しかし、ドイツなど敗戦国とソヴイエト=ロシアは排除され、アメリカも国際的負担に反対する上院がヴェルサイユ条約批准を拒否したため、連盟に参加しなかった(アメリカはいつも身勝手である。)。
 そのため連盟の構成国はヨーロッパ諸国にかたより、侵略国家への制裁手段が不十分であるなど問題があったが、中小諸国の国境紛争調停や、文化交流には成果をあげた。
 パリ講和会議で決定したヨーロッパの新国際秩序を、ヴェルサイユ体制とよんでいる。

 ワシントン体制:1921〜22年、アメリカ大統領ハーデイングの提唱で、アメリカ・イギリス・フランス・日本など9カ国が参加するワシントン会議が開かれた。会議で、
 海軍軍備制限条約:アメリカ・イギリス・日本・フランス・イタリアの五大国間で主力艦の保有トン数と保有比率を定めた。
 九カ国条約:中国の主権尊重・領土保全を約束した。
 四カ国条約:アメリカ・イギリス・フランス・日本で太平洋諸島の現状維持を求めた。
 また日英同盟は解消された。
 ワシントン会議で決まったアジア・太平洋地域の国際秩序を、ヴェルサイユ体制に対してワシントン体制とよび、この両体制が1920年代の国際秩序の柱になった。

 戦後しばらくは、国境画定や講和条件に反撥する国際紛争が続発した。
 ●オスマン帝国はギリシャと戦って領土の一部を回復し、セーヴル条約を改めてローザンス条約を結んだ。
 ●ポーランドは1920年ロシアに侵攻し(ポーランド=ソヴィエト戦争)、ベラルーシとウクライナの一部を得た。
 ●イタリアもユーゴスラヴイアと国境紛争をおこし、フイウメを獲得した。 ●なかでも、賠償支払いをめぐるフランスとドイツの対立は、1923年フランスとベルギーがドイツのルール工業地域を占領するほど悪化した。
    しかし、1924年以降国際協調の機運が広がって、25年ロカルノ条約では、ドイツと西欧諸国との国境の現状維持と相互保障が決まり、翌年ドイツ国際連盟に加入したものの、29年、経済の基礎が安定しないうちに世界恐慌にみまわれると、アメリカについで恐慌の被害が大きいドイツ経済は破滅的状況になり、国民生活や議会政治は混乱した。
 失業者がふえ、社会不安が広がると、農民や都市の中産階級のなかに、
イタリアのファシズムなどに学んだナチ党大衆宣伝に動かされる人が多くなった。
 32年の選挙でナチ党は第一党になり、翌33年、ヒトラーは首相に任命された。→
ヴェルサイユ体制の破壊

 1928年、フランスのブリアン外相とアメリカのケロッグ国務長官の提唱で、不戦条約(ブリアン・ケロッグ条約)が15カ国(のち63カ国)によって調印され、国際紛争解決の手段として戦争に訴えないことが誓われた。 なお、ワシントン会議で残された補助艦の制限も30年のロンドン会議でまとまり、アメリカ・イギリス・日本間での保有比率10・10・7が決定した。

 西欧諸国の停滞
 
イギリスとフランスは戦後、海外領土をふやしたが、大戦でうけた経済的打撃から回復せず、経済的不況に苦しんだ。

 ●ソ連は資本主義世界との交流が少なく、世界恐慌の影響をうけずに社会主義の基礎を築いたため、その計画経済は資本主義国からも注目された。しかし、スターリンは古くからの有力指導者をはじめ、反対派とみなした人びとに根拠のない罪状をきせ、大量に投獄・処刑して独裁的権力をふるい、スターリンの個人崇拝を強めた。
 36年にはスターリン憲法が発布されたが、憲法に規定された信教の自由や民族間の平等などはほとんど守られず、共産党の一党支配も変わらなかった。
 対外的には、ソ連は国際社会への参加をすすめ、1934年には国際連盟にも加盟した。また、日本やドイツなどファシズム国家と対決する姿勢をとり、コミンテルも35年、反ファシズム人民戦線結成を唱えた。

 世界恐慌ファシズム諸国侵略

 1929年10月、ニューヨーク株式市場(ウォール街)での株価の暴落から、アメリカは空前の恐慌に襲われた。工業生産の急落、企業の倒産、商業・貿易の不振が一挙に進み、銀行など金融機関の危機に波及した。労働者の4人に1人が失業し、国民の生活水準は大きく低下した。
 
恐慌アメリカで始まった背景には、(1)世界的な農業不況で農民が痛手を受けたこと、(2)高関税政策賠償戦債支払いが国際貿易の流れを妨げたこと、(3)アメリカに集中した資金が土地や株式への投機に使われたこと、などがある。
 世界経済・金融の中心であるアメリカの恐慌は全世界に波及し、アメリカ資本が引き揚げられたヨーロッパ諸国も恐慌にみまわれた。アメリカのフーヴァー大統領は1931年、賠償・戦債支払いの1年間停止(フーヴァー=モラトリアム)を宣言したが効果はなかった。恐慌はその破壊的規模の大きさと期間の長さから、世界恐慌と呼ばれる。

 恐慌は資本主義国の経済を揺るがして、政治・社会全体の危機を招き、各国は国内問題の対応に追われて、国際問題への関与には消極的になった。
 1932年から開催されたジュネーヴ軍縮会議は成果なく閉会し、国際連盟の活動も低迷した。

 同時に、ナチス=ドイツや、軍部主導による上からの全体主義国家体制をめざした日本のように、連盟から脱退して、武力自国要求押し通す国が現れた。それまでイタリアに限られていたファシズム思想運動も、こうした状況のなかで改めて注目さるようになった。

 人類の歴史上、不老長寿の薬がこの世にないのと同じで、弱肉強食の侵略によらない戦争はない。

 ニューデイールとブロック経済
 
●アメリカ:1932年の選挙で、民主党のフランクリン=ローズベルトが大統領に当選して、ニューディール政策(新規まき直し)によって、政府の強力な権限で経済を指導し、社会対立の拡大を阻止して、国民を落ち着かせた。
 外交面では、1933年ソ連を承認し、ファシズム諸国の攻勢には西欧民主主義を支援したが、公式には中立を維持した。ラテンアメリカ諸国には、
キューバプラック条項(米西戦争後のパリ条約によってキューバ独立は認められた。しかし、1902年に制定 されたキューバ憲法にはアメリカのキューバへの干渉権、海軍基地の設置、キューバの他国との条約や借款の制限などを認めた事項がアメリカの指示によって書き加えられた 。)を廃止するなど内政干渉を控え、ドル経済圏に組み入れる善隣外交政策がとられた。
 ●イギリス:1932年のオタワ連邦会議で、イギリス連邦内の関税を下げ、連邦外の国に対しては高関税を課すスターリング=ブロック(ポンド=ブロック)が結成された。
 1935年保守党政府が成立すると、ナチス=ドイツの反ソ的態度に期待して、ドイツの要求に譲歩し、対決をさけようとする宥和政策をとった。 ●フランス:恐慌の影響が1932年になって現れ、政府は植民地や友好国とフラン通貨圏を築いて、経済を安定させようとした。
 国内の政局は不安定であったが、ドイツのヒトラー政権成立、国内の極右勢力の活動などで、危機感をもった中道・左派勢力がまとまり始めた。35年には、仏ソ相互援助条約が結ばれ、翌36年、社会党・急進社会党に共産党が協力して、社会党のブルムを首相に反ファシズムをかかげる人民戦線内閣が成立した。
 (ファシズムに対抗するため、共産党をふくむ左翼勢力が連合することを人民戦線といい、1935年のコミンテルン大会で正式に認められた。人民戦線は5年にフランスやスペインで、36年にはチリで成立したが、長続きしなかった。)
 ドルポンドフランなどの通貨に経済圏をつくり、他国の商品を排除するブロック経済は、国際経済をますます縮小させ、弱体中小諸国経済圧迫した。

●日本:第一次世界大戦期の戦時景気で工業を発展させたが、1923(大正12)年ころから貿易が不調になり、27(昭和2)年には金融恐慌が発生し、さらに世界恐慌に追い打ちをかけられた。経済が混乱して労働争議が多発し、社会不安も広がった。しかし、既成政党は政権争いを続けて国民の信頼を失い、軍部経済危機大陸での支配拡大解決することを主張した。
 1931(昭和6)年9月、関東軍は中国東北地方(満州)の柳条湖で鉄道を爆破し、これを口実に軍事行動をおこして大半を占領した。これが
満州事変だった。
 軍部は国際社会の注意をそらすために、32(昭和7)年には
上海事変をおこした。
 日本の軍事的行動は国際的に批判され、中国の提訴で
国際連盟リットン調査団の派遣を決めた。関東軍は既成事実をつくるため、32年3月、清朝最後皇帝溥儀執政(のち皇帝)にすえて、満州国を建国させた。
 調査団は軍事行動が自衛権の発動であるとする日本の主張を退け、連盟もそれを支持したので、
日本33(昭和8)年3月国際連盟脱退通告した。
 日本の侵攻はその後熱河方面及び、一時は長城を越えて北京に迫り、華北支配を狙うようになった。これと並行して一部の軍人はテロやクーデタ事件(五・一五事件、二・二六事件など)をおこし、国内での影響を強めようとした。
 日本の軍部は1937(昭和12)年7月の
盧溝橋事件をきっかけに、軍事行動を拡大した。
 同年9月第2次国共合作(蒋介石・毛沢東)が成立し、日中両国は全面的交戦状態にはいった(
日中戦争)。37年末までに、日本は華北の要地と南京を占領したが、南京占領の際には多数の中国人を殺害して(南京虐殺事件)、国際世論の非難を浴びた。
 中国はアメリカ・イギリス・ソ連の援助をうけ、政府は南京から武漢、さらに奥地の重慶に移して抗戦を続けた。日本は重要都市とそれを結ぶ交通路を確保したものの、広い農村地帯を支配できなかった。
 1940(昭和15)年東亜新秩序建設をかかげ、重慶政府に対抗して、南京に
汪兆銘親日政権を設立させたが、中国民衆の支持をえられず事態解決の展望は見えなかった。
 満州国:皇帝溥儀  属国日本:総理大臣安倍晋三
(不本意)   (積極的に媚びを売る)
 大日本帝国  アメリカ合衆国

●ドイツ:ヒトラーは国会議事堂放火事件を利用して、共産党など左翼勢力を弾圧し、全権委任法によって国会の立法権政府に移し、さらにナチ党以外の政党や労働組合を解散させて一党独裁を実現した。
 基本的人権や市民的自由は無視され、教育や文化を含む社会のあらゆる領域が厳しく統制された。
 政治的反対派やユダヤ人は、秘密警察・親衛隊・突撃隊によって監視され、強制収容所に押し込められた。このため、社会主義者・民主主義者・ユダヤ人など多数が外国に亡命した(ノーベル賞作家のトーマス=マン・同じくノーベル物理学賞をうけたアインシュタインなど)。
 ナチスは四カ年計画によって軍需工業を拡張し、アウトバーン(自動車専用道路)建設など
大規模土木工事をおこして失業者を急速に減らし、イタリア=ファシズムにならって大衆娯楽や福祉にも一定の配慮を示して、国民の支持を得た。
 国内支配を確立したナチスは、1933年秋、軍備平等権が認められないことを理由に国際連盟から脱退し、35年には住民投票によって有力な炭鉱地帯であったザール地方を編入した。
 同年、ナチスが
徴兵制復活再軍備を宣言すると、イギリス・フランス・イタリアは抗議した。
 しかし、間もなくイギリスはドイツと海軍協定を結んで、イギリスの35%の海軍力保有をドイツに認め、事実上再軍備を追認した。
 1936年、ドイツ(ヒトラー)は仏ソ相互援助条約調印を理由に
ロカルノ条約(1925年スイスのロカルノで、イギリス・フランス・ドイツ・イタリア・ベルギー・ポーランド・チェコスロバキアの7カ国が締結した一連の欧州相互安全保障条約。ドイツとベルギー・フランスとの国境の現状維持、相互不可侵、ラインラントの非武装化などが決定された。)を破棄して、ラインラントに軍を進駐させ、ヴェルサイユ体制の破壊を進めた。

●イタリア:経済基盤の弱体なイタリアは、恐慌によってたちまちゆきづまった。ムッソリーニ対外侵略によって苦境を脱しようとして、1935年、エチオピアに侵攻し、翌年全土を征服した。
 国際連盟はイタリアを
侵略国と認めて、連盟初の経済制裁を実行したが、内容は不十分で効果をあげず、連盟の威信はそこなわれた。イタリアはこの間、ナチス=ドイツに接近し、36年ベルリン=ローマ枢軸を結成した。

●スペイン:1931年に王政が倒れた後、政局が混乱していた。36年の選挙で人民戦線派が勝利して政府を組織すると、軍人のフランコは旧王党派や地主層など保守派の支持を得て反乱をおこした。イギリス・フランスは不干渉の立場をとったが、地中海地域の支配を狙うイタリアは、ナチス=ドイツとともにフランコ側を公然と支援した。内線は小規模の国際紛争になったが、フランコ側が39年マドリードを陥落させて勝利した。
 人民戦線結成など国際共産主義運動の動きに対抗して、1936年日本とドイツは防共協定を結び、37年にはイタリアも参加して三国防共協定に拡大された、イタリアは37年、日本・ドイツの例にならって国際連盟を脱退した。こうして、ヴェルサイユ・ワシントン両体制に挑戦する日本ドイツイタリアは、三国枢軸を結成するに至った。

第二次世界大戦

 ナチス=ドイツの侵略と開戦
 1938年3月、ドイツはドイツ民族統合を名目にオーストリアを併合。
 1939年3月、チェコスロヴァキア解体を強行。
 ドイツの行動に刺激されて、イタリアも4月、アルバニアを併合。
 1939年8月末、
独ソ不可侵条約締結。
 これに力を得て、ナチス=ドイツは9月1日、準備していたポーランド侵攻を開始。
 
■イギリス・フランスはドイツに宣戦し、第二次世界大戦が始まった。
 
ポーランドはドイツ軍に圧倒され、1939年9月半ばにはソ連軍の侵入も受けて敗北し、両国間で分割された。
 ソ連は11月フィンランドに宣戦(この戦争で、ソ連は国際連盟を除名された。)して、翌40年国境地帯の軍事基地を獲得し、さらにバルト3国(エストニア・ラトヴィア・リトアニア)を併合して、ルーマニアからもベッサラビアを割譲させた。
 一方、西部戦線は暫く平穏であったが、40年4月、ドイツ軍はデンマーク・ノルウェーに、5月オランダ・ベルギーに侵入し、さらにフランスに侵攻して6月パリを占領した。
 ドイツの優勢を見て、
■イタリアもドイツ側について参戦した。
 イギリスでは、チャーチル首相が激しい空襲をしのいでドイツ軍の上陸を阻止した。
 41年4月、ドイツはイタリアを支援してバルカン半島に軍を派遣し、ユーゴスラヴィアとギリシャを占領した。
 ここまでは、戦場はヨーロッパとその周辺部に限定され、ナチス=ドイツはヨーロッパ大陸の過半を支配するようになった。しかし、ドイツのバルカン半島進出はこの地域に関心を持つソ連との関係を緊張させ、ソ連は1941年4月、ドイツにそなえて
日ソ中立契約を結んだ
 目まぐるしい戦々恐々の策略が展開された。昨日の友は今日の敵。

 1941年6月、ドイツは独ソ不可侵条約を無視して、イタリア・ルーマニア・フィンランドと共にソ連を奇襲し、独ソ戦が始まった。ドイツ軍は年末にはモスクワに迫ったが、ソ連軍は大きな損害を出しながらも押し返した。これを機にソ連イギリス同盟を結び、43年にはイギリスアメリカなどとの協調を深めるため、コミンテルンを解散した。

 短期戦に失敗したドイツは、戦争経済を支えるため東・西ヨーロッパ占領地から工業資源や食料を奪い、数百万人の外国人をドイツに連行して強制労働に就かせた。また、支配地域にも人種主義政策を強制し、多数のユダヤ人やスラヴ系の人びとをアウシュヴイッツなどの強制収容所で殺害した。ドイツの支配に反抗して、各地でレジスタンスや武装抵抗運動(バルチザン)が組織された。

 日本の南方進出
 日本は日中戦争の長期化で国力を消耗させたので、状況を打開するため南方への進出をくわだてた。
 1940(昭和15)年9月、フランスの敗北に乗じてフランス領インドシナ北部に軍を派遣し、また三国防共協定を
日独伊三国同盟へと発展させた。
 41年4月には北方の安全確保のため
日ソ中立条約を結び、フランス領インドシナ南部にも軍を進めた。
 この間、アメリカは中立を守っていたが、1941年3月武器貸与法によってイギリスソ連などに武器軍需品を送り、反ファシズム諸国支援の姿勢を明確にした。(勝つ方に貸し付けたのであり、やったのではない。負ける方に貸すと、利益どころか、元さえ取り返すことができない。)
 また、日本の南方進出を牽制して
日本への石油供給停止し、イギリス・中国・オランダと共に「ABCDライン」を形成して対抗した。(現在の北朝鮮に対する状況と同じである。)

 1941年初めからの日米交渉が行き詰まると、同年12月8日日本軍はハワイの真珠湾(パールハーバー)にある米海軍基地奇襲し、マレー半島に軍を上陸させて、アメリカイギリス宣戦し、太平洋戦争に突入した。

 開戦後半年間で、日本は、マレー半島・香港・シンガポール・インドネシア・フィリピン・ソロモン諸島を占領し、ミャンマーを征服した。日本は「大東亜共栄圏」を唱え、占領下のフィリピン・ミャンマーでは親日政権を設立させ、またインドネシアでは親日組織をつくらせ、インドシナ・タイには日本との協力を声明させた。日本国内では開戦後、軍部の権力が強大に成り、言論や報道が厳しく統制された。

 東南アジアの占領地では、当初、日本を欧米諸国の植民地支配からの解放者として迎えたところもあった。しかし、日本占領目的資源収奪とそれに必要な治安確保であり、軍政のもとで、日本語教育神社参拝の強制など、現地の歴史や文化を無視した政策がおこなわれた。さらにシンガポールやマレー半島、フィリピンでは住民への残虐行為や捕虜を含む強制労働が多発した為、住民の激しい反感を呼び、日本軍は各地で抵抗運動に直面した。

 工業基盤の弱い日本は長期戦遂行能力に欠け、1942年6月、ミッドウェー海戦で大敗すると、戦争の主導権を失った。

 ファシズム諸国の敗北
 枢軸国(ファシズム陣営)  連合国(反ファシズム陣営)
 日本・ドイツ・イタリア アメリカ・イギリス・ソ連 

 1942年後半から、連合国軍は総反撃に移り、43年初めソ連軍はスターリングラードでドイツ軍を降伏させ、一方アメリカ軍は日本軍をガダルカナル島から撤退させて、以後太平洋地域の日本軍を次々と破った。北アフリカに上陸した連合軍がイタリア本土に迫ると、イタリア国内では、軍部やファシスト党内部からもムッソリーニに反対する動きが現れ、43年7月、ムッソリーニは国王に解任され、ファシスト党は解散した。同年9月、連合軍がイタリア本土に上陸すると、■イタリア新政府(バドリオ政府)無条件降伏を申し出た。

 1945年2月、米・英・ソ3国首脳はクリミア半島のヤルタで会談し、ヤルタ協定を結んでドイツ処理大綱秘密条項としてドイツ降伏後ソ連対日参戦などを決めた。

 連合軍の空襲で多くの都市や工業施設、交通網を破壊されたドイツは、45年には総崩れになった。■4月末ヒトラーは自殺して、ベルリンは占領され、5月7日ドイツ無条件降伏した。

 太平洋戦域では、アメリカ軍が1944年中にサイパン島とフィリピンのレイテ島を、45年2月にはマニラも奪回し、4月沖縄本島上陸した。同時に日本本土への爆撃を強めたので、主要都市や住民は大きな被害を受けた。


 4月にローズヴェルトが急死した為、大統領に昇格したトルーマンは、7月チャーチル(途中で労働党のアトリーと交替)・スターリンとポツダムで会談し、ドイツ管理問題を協議すると共に、日本の降伏を求めるポツダム宣言を発表した。
 (ポツダム宣言は、はじめアメリカ・イギリス・中国の名前で発表され、のちソ連も参加した。宣言は、日本軍の無条件降伏要求や、降伏後の日本の処遇について基本方針を明らかにした。)

 アメリカは、8月6日広島に、さらに9日に長崎新兵器原子爆弾投下して、両市壊滅させた。
 (原子爆弾によって、広島では被爆後5年間に20万人以上、長崎で14万人以上の市民が死亡し、現在も後遺症に苦しむ人びとがいる。)
 

 同時に、ソ連はヤルタ協定に基づき、日ソ中立条約の規定を無視して、8月8日日本に宣戦し、中国東北地方をはじめ、朝鮮・樺太に軍を進めた。
 (ソ連は1945年4月、日ソ中立条約破棄を日本に通告したが、規定では条約は破棄通告後1年間は有効であった。なお、ソ連に降伏した軍人、さらに一部の居留民あわせて約60万人がシベリアなどソ連各地に長期間抑留され、悪条件下での労働で多くの死者を出した。)

 日本の降伏直前のアメリカとソ連の軍事行動は、戦後世界で主導権を握ろうとする意図があった。■日本は8月14日ポツダム宣言受諾して降伏し、15日国民にも明らかにした。6年にわたる第二次世界大戦は終わった。

 大戦の結果
 連合軍側が早くから反ファシズムをかかげ、大西洋憲章によって新しい戦後秩序を示して、多くの国々の支持を集めたのに対し、ファシズム諸国家は自国民の優秀さを唱え、それぞれの支配圏確立をめざすだけで、広く世界に訴える普遍的理念を持たなかった。さらにファシズム諸国の暴力的な占領地支配は、占領地域民衆の広い抵抗運動を呼び起こした。その結果、ファシズム諸国は事実上全世界を敵にまわすことになって、敗北した。
 第二次世界大戦の犠牲者は軍人・民間人をあわせて数千万人にのぼると言われている。それには、人種的・宗教的差別による追放や大規模殺害も含まれ、戦後も各地で多くのの難民をうんだ。

  これは枢軸国(ファシズム陣営)だけの責任だろうか。連合国(反ファシズム陣営)の特にアメリカソ連責任も問われなければならない。人道・人権問題は「勝てば官軍」ではすまされない。
 双方、弱肉強食の自国第一の欲だけで、残忍で「武力がある方が勝った」ということだったのではないか。特に戦争立国・アメリカの正義面は許せない。

 米ソ両国は、連合国の勝利に決定的役割を果たし、戦後世界での指導的地位を認められた。
 ヨーロッパは、世界の中心から世界の諸地域の一つに後退した。
 他方で、中国やアジア諸地域での民衆の抵抗運動は、反ファシズム運動の枠を越えて、
欧米諸国植民地支配を打ち破って自立する力量を獲得した。
 大戦がもたらした多大の犠牲と国土の荒廃への反省、
人類生存そのものをかすことになる核兵器登場は、戦後の諸国家や国際体制の方向を決定する要因となった。

● 敗戦国ドイツと日本の扱い

 

ドイツ
4国
分割占領共同管理 
 日本
アメリカ
日本属国化占領
 ドイツへの方針が1945年8月の3国のポツダム協定で決定され、フランスをふくめた4国による分割占領共同管理、旧首都ベルリンの分割管理、民主化の徹底などが実行された。
 同時に
ニュルンベルグ国際軍事裁判所が設置され、ナチス=ドイツ指導者戦争責任が追及された(裁判では平和や人道への罪が問われ、ナチス=ドイツの指導者12名が死刑判決を受けた。)。
 
 オーストリアはドイツと分離されて4国の共同管理下におかれ、イタリア・ハンガリー・ブルガリア・ルーマニア・フィンランドの旧枢軸国とは、47年パリ講話条約が結ばれ、イタリアは海外領土を放棄した。
 日本はおもにアメリカ軍からなる連合国軍に占領されたので、アメリカ主導で軍隊の解散・財閥解体・農地改革・教育改革などの民主的改革が実施され、東京にも極東国際軍事裁判所が設置されて戦争犯罪が裁かれた(東条元首相ら7名が死刑判決をうけた。)。
 1946年には、主権在民・戦争放棄をうたった日本国憲法が公布された。
 
アメリカ単独日本属国化占領原子爆弾開発投下威力による、暗黙裏了解だった。以後、処分と引き替えに野放しにした戦犯による代理支配を可能にし、日本の独立も主権も見せかけで、アメリカの属国であることは単独占領時点で決定していた。

 アメリカの核兵器独占は、1949年ソ連の原子爆弾製造で破れ、まもなくイギリスも核保有国となった。
 アジア・アフリカの新興独立国からは、東西対立にまきこまれず自立的立場をまもるために、平和五原則の提唱やアジア=アフリカ会議の招集、非同盟勢力の結集などの試みがなされた。アフリカ植民地の多くも、1960年代にはほとんどが独立した。第三世界の躍進は、戦後世界の重要な特徴となった。
 
日本だけがアメリカの属国化で世界の潮流に逆流した。アメリカの実態は世界のポリースではなくて、戦争マフィアである。
 

 朝鮮戦争(1950年〜53年休戦)を機に、東西対立はアジア・太平洋地域にも広がり、アメリカは1953年から「巻き返し政策」をかかげ、同盟網を張り巡らせた。
 朝鮮戦争勃発後、日本は警察予備隊(のちの自衛隊)を設置し、1951(昭和26)年、社会主義国と一部アジア諸国の不参加や反対をおして、サンフランシスコ講和会議で平和条約に調印した。日本は独立を回復し、朝鮮・台湾・南樺太・千島を正式に放棄した。同時に、日米安保保障条約も結ばれ、アメリカは事実上、日本の防衛を引き受け、日本はアメリカ軍駐留軍事基地関係施設存続を認めた。(正確には力尽くで認めさせられたのである。日本は惨めな敗戦で、怖じ気ついて、骨抜きにされてしまった。)
 疑問:当時共和国軍と対戦し、窮地にあったのはアメリカで、日本がアメリカに防衛を引き受けてもらい、沖縄を軍事基地にして、居座ってもらう必要はなかった。すでにアメリカが日本を属国にしていたからできたことである。
 
 

 1951年(昭和26年)9月18日。サンフランシスコ講和条約批准。連合国は日本国の主権を承認(同条約は翌年4月28日に発行し、日本は正式に国家としての全権を回復した)。同日、日本国とアメリカ合衆国との間の「安全保障条約」署名された。
 これは米軍の日本国内およびその付近への駐留・配備を認め、条約の失効は日米双方の認定を必要とするが、
米駐留軍「日本防衛義務負わない」という形式で、その内容は、駐留米軍は極東における平和と安全の維持、日本政府要請に応じて国内の騒擾や内乱の鎮圧、日本に対する外部からの武力攻撃の阻止に使用することができるというものだった。
 当時は
米ソ2か国間による冷戦体制、1954年(昭和29年)7月、日米の合意の元に防衛庁自衛隊を発足させた。このことにより安保を見直す動きが出てきた。
 1946年(昭和21年)、幣原喜重郎首相がマッカーサーを訪問し、密談。この時、
幣原首相かねて考えた世界中が戦争をしなくなるには、戦争放棄するという事以外にはないと考える。憲法にそういう条項を入れたいと語ったとされる。幣原の親友の大平駒槌枢密顧問官が娘の羽室ミチ子に語った内容を、羽室がメモ(羽室メモ)を残している。「戦争放棄」幣原からの発案だったとマッカーサーが回顧録に書き、幣原は自身の回想録『外交五十年』の中で戦争放棄のアイデアは自発的だったと書き記してる。晩年のマッカーサー「憲法9条を加えたのは失策だった」「旧軍部分的存続させるべきだったと後悔していたと伝えられている。
 1948年(昭和23年)1月6日、ジャパン・ロビーのケネス・クレイボーン・ロイヤル長官が日本の過度の弱体化を進めるGHQの占領策を批判する。同年2月、米国のフォレスタル国防長官に
「日西ドイツ再軍備」を検討するよう指示。その3ヶ月後にロイヤル長官「アメリカ人的資源節約のためにも日本再武装が望ましい。そのためには日本人改憲することが必要と答弁する。この年から、米政府から日本に対して改憲再武装を要求する圧力が強まり、警察予備隊(のちの自衛隊)設立の準備が進む。
 
 安倍総理は「憲法はアメリカが作ったものだから、日本人が自前の憲法を作らなければならない。だから改憲が必要だ」と言うが、
「アメリカ兵の代わりに自衛隊員日本国民に死んでもらおう」と、日本改憲再武装熱心主張しているのはアメリカである。
日本国日本国民アメリカ戦利品である

 1957年(昭和32年)10月、ソ連が世界初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功、11月にはライカ犬を乗せたスプートニク2号の打ち上げにも成功した。先を越されたアメリカは、12月に人工衛星バンカードを打ち上げたが失敗、翌年1月にエクスプローラー1号でようやく成功した。これはロケット技術による大陸間弾道弾(ICBM)開発にアメリカが遅れをとったことを意味し、極東戦略変更、ひいては日本前線基地化核武装化させるべく方針転換することを余儀なくされ、日米安保条約改定に乗り出すことになったのである。

 安倍、生体実験部隊の名前(731)が書かれた飛行機に乗ってサムズアップ
 2013(平成25)年5月12日 宮城県東松島市の航空自衛隊(出典:韓国ハンギョレ新聞社)

ト書きばっちり
マニュアル

力強く
 水を飲む
2013(平成25)年5月24日付毎日新聞

ずかしくないこれ異常

 首相演説に立ち上がって拍手する手下自民党議員たち。夢見心地忠誠競争は亡国並み(粛清の恐怖)。内閣法制局が安保法を決済したのは5月0日。幻想の集団的自衛権、現実に動き出し。YOMIURI ONLINE

 2016年9月27日 17:07【安倍ノータリンではなく脳無増長演説総立舞台裏】日刊ゲンダイ

 

金正恩(脳有)・トランプ(脳有)・安倍晋三(脳無)
自前の脳の
品質は問わない。
アメリカに安倍ロボットを製造することは可能である。

 こいつはヒトラーか、金正恩にでもなったつもりなのか。昨日、衆院本会議で行われた安倍首相による所信表明演説をみて恐怖で鳥肌がたった。それくらい、あの光景は不気味なものだった。

 国会中継を見ていない人のために、改めて経緯を振り返っておこう。それは、安倍首相が演説で北朝鮮の核実験問題を取り上げた後のことだった。いきなり陶酔的な口調で「我が国の領土、領海、領空は、断固として守り抜く。強い決意を持って守り抜くことを、お誓い申し上げます」と宣言した後、こう続けた。(冨嶋加筆:腑抜け安倍が何を言う。)

 「現場では夜を徹して、そして、いまこの瞬間も海上保安庁、警察自衛隊の諸君が任務に当たっています。極度の緊張感に耐えながら強い責任感と誇りをもって任務を全うする。その彼らに対し、いまこの場所から、心からの敬意を表そうではありませんか」

 安倍首相がそう言うと、自民党議員らが次々に立ち上がり、拍手を始めたのである。途中で安倍首相自身拍手をはじめ、じつに10秒近く、拍手は続いた。途中で大島理森衆議院議長が「ご着席下さい」と注意しても、拍手は鳴り止まなかった。

 「海保や警察のこともふれていましたが、安倍首相の演説の目的が自衛隊にあったことは明白です。これから先、自衛隊『命をかけさせる事態が起きるのは確実ですから、そのための地ならしをしたということでしょう」(全国紙政治部デスク)

 「命をかけさせる事態というのはもちろん、安保関連法に基づく「駆けつけ警護」開始だ。安倍首相は今回の演説で、駆けつけ警護については一言も語らなかった。つまり、実際の危機が間近に迫っていることを巧妙に隠しながら、あらかじめ自衛隊員の“英雄化”をはかっておくことで、殉職者が出た場合の反発を最小限に押さえ込もうとしたのではないか、というのだ。

 「他にも、安倍首相は将来、尖閣諸島をめぐる武力衝突や朝鮮半島への派兵なども念頭に入れているはずです。そのために、自衛隊員に敬意を表するポーズをとりながら、『国のためにげるのは当然』という空気をつくりだそうとしているのでしょう」(前出・全国紙政治部デスク)

 いずれにしても、今国会の所信表明演説で繰り広げられた事態は、まさに安倍政権による「戦争できる国」「国民国家のために国」づくり一環だった、そう考えるべきだろう。

 これは、今の自民党の状況をそのまま物語っているといえるでしょう。安倍首相の独裁体制が完全にできあがっていて、誰も逆らえない。若手議員はむしろ、政権中枢に取り入るために、率先してタカ派的姿勢、歴史修正主義的姿勢をアピールしている状態です」(政治評論家)

 ようするに、いまの自民党は、安倍が自衛隊を戦地に送れと言えば、すぐに戦地に送る、憲法改正をやると言えば、党を挙げてやる、そんな体制ができあがってしまっているということらしい。

日本再軍備のレール

1 岸信介の戦犯免責と60年安保改正

 東条英機ら7名のA級戦犯が処刑された翌日の1948年(昭和23年)12月24日、アメリカは安倍晋三総理の祖父・東京巣鴨拘置所に3年半収監されていたA級戦犯被疑者(戦犯者とはWikipedia不起訴者を含む戦争犯罪容疑者のこと)であった岸信介を「無罪放免(不起訴のまま釈放)」と引き換えに「アメリカの走狗(そうく:手下)」にした。

 そして
1957年(昭和32年)2月25日〜1960年(昭和35年)7月19日、戦犯:岸をCIAの資金提供で総理大臣にして、1960(昭和35)年5月19日、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約の改定「60年安保改正」強行採決させた。

 (安保改定と反対運動)・・・ウイキペディア(岸信介)

 1960(昭和35)1月に全権団を率いて訪米した岸は、アイゼンハワー大統領と会談し、新安保条約の調印と同大統領の訪日で合意した。新条約の承認をめぐる国会審議は、安保廃棄を掲げる社会党の抵抗により紛糾。5月19日には日本社会党議員を国会会議場に入れないようにして新条約案を強行採決したが、国会外での安保闘争も次第に激化した。

 警察と右翼の支援団体だけではデモ隊を抑えられないと判断し、児玉誉士夫を頼り、自民党内の「アイク歓迎実行委員会」委員長の橋本登美三郎を使者に立て暴力団組長の会合に派遣。錦政会会長稲川角二住吉会会長磧上義光テキヤ大連合のリーダーで関東尾津組組長・尾津喜之助ら全員が手を貸すことに合意。さらに3つの右翼連合組織にも行動部隊になるよう要請。ひとつは岸自身が1958年(昭和33年)に組織した木村篤太郎率いる新日本協議会、右翼の連合体である全日本愛国者団体会議、戦時中の超国家主義者も入った日本郷友会(旧軍の在郷軍人の集まり)である。「博徒暴力団恐喝屋テキヤ暗黒街のリーダー達を説得し、アイゼンハワーの安全を守るため『効果的な反対勢力』を組織した。最終計画によると1万8千人博徒1万人テキヤ1万人旧軍人右翼宗教団体会員の動員が必要であった。彼らは政府提供のヘリコプター軽飛行機トラック、車両、食料、司令部や救急隊の支援を受け、さらに約8億円の『活動資金』が支給されていた」。ただし岸は「動員を検討していたのは消防団青年団、代議士の地元支持者らである」と述べている

 政府の強硬な姿勢を受けて、反安保闘争は次第に反政府・反米闘争の色合いを濃くしていった。国会周辺は連日デモ隊に包囲され、6月10日には大統領来日の準備をするために来日した特使、ジェイムズ・ハガティ新聞係秘書(ホワイトハウス報道官)の乗ったキャデラック東京国際空港の入り口でデモ隊に包囲されて車を壊され、ヘリコプターで救出される騒ぎになった。岸は「国会周辺は騒がしいが、銀座後楽園球場はいつも通りである。私には“声なき声”が聞こえる」と沈静化を図るが(いわゆるサイレント・マジョリティ発言)、東久邇片山・石橋の3人の元首相が岸に退陣勧告をするに及んで事態は更に深刻化し、アイゼンハワーの訪日は中止となった。

 さらに6月15日には、ヤクザ右翼団体デモ隊襲撃して多くの重傷者を出し、国会構内では警官隊とデモ隊の衝突により、学生の樺美智子が圧死する事故が発生。6月15日18日には、岸から自衛隊治安出動を打診された防衛庁長官赤城宗徳拒否。安保反対のデモが続く中、一時は首相官邸で実弟の佐藤栄作と死を覚悟する所まで追いつめられたが、6月18日深夜、条約の自然成立。6月21日には批准昭和天皇が公布した。新安保条約の批准書交換の日の6月23日、混乱の責任を取る形で岸は閣議にて辞意を表明する。

2 安保関連法案法(集団的自衛権の行使を可能にする)の成立(2015年9月19日未明)・施行(2016年3月19日0時)

3 憲法改正(憲法9条自衛隊存在明文化)で、アメリカ日本属国支配完結

● サラリーマン氏2人の会話

 

 JRの下関駅から小倉駅の車中。門司駅から乗り込んできて、通路を挟んで隣の席に座った、50代のサラリーマン氏2人の会話。
 「この年になって、会社から
『英会話を勉強せよ』と言われるとは、まったく思ってもみなかったよ」
 一方の男は相づちを打ち、小声で何か言っている。
 「とにかく社長は、外国人と会って、話せと言うんだ。そう言ってもね、外国人と会う機会がないんだ。どうやってそんな機会をつくるかだよね」
 もう、電車は小倉駅のホームにさしかかっている。
 冨嶋は「小倉駅から私の足で20分。朝日カルチャーセンターに行けば、問題解消です」の一言が喉につかえて出なかった。
 日本人は日本人の間ですら、こうだから、外国人に話しかけるのは至難である。

 朝日カルチャーセンターに行けば、問題解消の理由
北九州事務局 (093)521-8381

 「わかばマークのなるほど英文法」と「土曜日の英会話入門」を受講してみてください。

 学校を卒業して、20年〜30年も経てば、この場合、冠詞は「a」だったかな、「the」だったかな、それとも「付けなかったか」と、ごくごく初歩の初歩がわからなくなっている。文法の本のどこをめくればよいかもわからない。
 そんな悩みの核心をつかんで、
英語英語理解できるように指導してくださるのが、植村先生の「わかばマークのなるほど英文法」です。
 
英語合理性で、文章をからに(上から上から)流れるようにパク、パク噛んで、読んで、書くことだそうです。後戻りしてはならない。
 肩幅に両足を開いて、腹式呼吸の練習。寒い日は、こわばった顔の筋肉を緩める体操。元気一杯楽しく学んでいます。
 毎回テストがあり、その場で採点。回答を1人、1人順番に日本語と英語の両方で大きな声でおさらいをします。
 私は「これが基礎英文法を勉強する最後の機会」と考えて、植村先生にしがみついています。復習を家に持ち帰らないで、授業中に修得するように心がけています。クラスメイトは思いやりの心で「互いの記憶力の低下」を優しく包み込んでくれます。だから、間違っても、恥ずかしがらなくていいです。これは
気楽です。昨年のクリスマスにはクッキーを、今年はすでにバレンタインデーのチョコレートをプレゼントしてもらいました。

 そして、「君の英語をわかってあげるよ」と待っていてくださる、アレックス先生の英会話のクラスで実践することです。彼は絶対に「生徒のおかしな英語」を否定しない。どうにもならないときだけ「Excuse me.失礼致します。ただ今、お間違えになりましたよ」と、native Englishで訂正してくださる。
 「こんな私の英語でも、どうにか意味が伝わるのだ」と、ギリギリの限界のところがわかれば「しめたもの」です。英会話の
垣根を越えたのです。 「今度、こんなことを英語で言ってみようかな」と、英語で単語・短文を考えるようになります。日常生活のふとした場面で、「これって、英語でどう表現すればいいのかな」と、英語で考えることが億劫でなくなります。英語で表現することに興味がわいてきます。アレックス先生の前で声に出して言ってみることです。
 さすがは
nativeで、2つの表現方法があるとき、Aは「95%〜100%sure」、Bは「70%〜80%sure」と黒板に書いて、native Englishで説明してくださいます。クラスメイトと片言の英語でお喋りをしながら、いつのまにか、図々しくも、英語が話せるようになります。私はまだそこまで行っていませんが楽観しています。
 「それを言っちゃ、お終いよ」(渥美清)★★★・・・・
 「そのうち何とかな〜るだろう」(植木等)★★★・・・・

 そして今回、HP「会員ひろば738」の作成に着手して、英語がビジネスになくてはならないだけでなく、自分の「命を守る道具」であることに出くわしました。以前から薄々わかっていたことですが、はっきりしました。

第一次世界大戦で海軍の入隊を呼びかけるポスター

 私がアレックス先生の1回目の授業に出席したときが、この「仮定法過去(現在の事実に反することを仮定・想像・願望する。)」で、自分なりに文章を作ることでした。

If I were a bird, I could fly to you.
もし私が鳥なら、あなたのところに飛んで行けるのに。

   私は驚いた。まず日本語の文章が思い浮かばない。参った。真実のみを積み重ねて書いていかなくてはならない、私には「もし」は禁句だった。
 私は焦って「私の飼い猫が日本語が話せたら、彼らは私とお話ができるのに」という文章を作った。 
 アレックス先生は「願望は何か」と言った。「1人暮らしの私が、猫と会話を楽しむことだ」と答えた。アレックス先生はうなずかなかった。「困った者が入ってきた」。
 
しおりを送ってくれたフランス人の友は「一人暮らしの君が、猫を飼うことはいいことだ」と理解してくれている。どうしたことか、世界中、猫ブーム。イギリスからは「Cats Calendar」が届く。
 クラスメイトはあれこれ甘い文章を作って楽しんでいた。
 それにしても「やはり、フランスは芸術の国だ」と思わせることがしばしばで、贈り物で、私の部屋はパリです。
 
 

 第二次世界大戦で、国民が情報を得る道具である「英語」を取りあげられなかったら、沖縄戦広島長崎原子爆弾投下で、多くの国民が死ぬことはなかった。
 工業基盤の弱い日本は長期戦遂行能力に欠け、1942年6月ミッドウェー海戦大敗すると、戦争の主導権を失った。 
 遅くとも、この時点で日本は戦争終結させるべきだった。

 ラジオ放送で「日本軍がパールハーバーを
奇襲し、アメリカ宣戦したこと」を聞いた瞬間、ほとんどの国民が「負けた!」と思ったと、年配者から聞く。「馬鹿な!アメリカを相手に勝てるわけがない。」
 だけど軍部の取締り(特高警察・密告・憲兵隊)を恐れて押し黙った。

 霊光郡で農場を経営していた冨嶋の父・茂が仲間と冬山に狩猟に行ったとき、焚き火を用意して、酒をふるまってくれた韓国人の老人が、「今に内地では、空から火の弾・玉(たま)が降ってきて、国土を焼きつくす。日本は負けるよ」と言った。日本人も韓国人も、皆知っていた。日本が負けることを。この場面で喧嘩にならなかったのは、日本人が「愚かな大日本帝国敗戦」を意識していたからだ。父は老人の言うことを黙って聞いた。謝礼を渡すと、猟を続けた。

● カンボジアでは、1970年にクーデタでシハヌーク元首を追放した親米右派勢力と、ポル=ポトの指導する赤色クメ−ルなど解放勢力との内戦が続いた。75年解放勢力が勝利して、民主カンプチア(民主カンボジア)を名乗った。
 1970年代のカンボジアで勃発した内戦と、その後に誕生したポル・ポト政権による圧政と虐殺の暗黒時代を描いた、1984年のイギリス映画「The Killing Field」で、沼には虐殺されたおびただしい数の頭蓋骨。数多くの人々が何の理由もなく虐殺されていった。特に教師や医者、新聞記者などの
知識人への弾圧は常軌を逸したものだった。地元新聞社の記者プランはラジオの外国語放送(BBC放送)を隠れて聞いているところを、労働集団の監督に目撃されるが、監督はプランを拘束するどころか、自分の身になにかあったら子供を連れて逃げるように言った。数日後、監督はクメール・ルージュの横暴を止めようとして殺害され、プランは子供や仲間たちと共に脱走する。途中で仲間たちは次々に命を落とし、子供も地雷によって死んでしまう。1979年、ようやくプランはタイ国境の難民キャンプに辿り着く。

● プレス・コード(Press Code for Japan)
 太平洋戦争終結後の連合国占領下の日本において、連合国軍最高指令官総司令部(GHQ)によって行われた、新聞などの報道機関を統制するために発せられた規則である。1945年9月19日に発令(9月21日公布)した新聞編集綱領。正式名称はSCAPIN−33「日本に与うる新聞遵則」。占領軍批判の禁止を主な内容とする。これにより検閲が実行された。
 52(昭和27)年4月28日サンフランシスコ講和条約発効により失効(これは虚偽)。 

概要

 このプレスコードに基づいて、主にGHQ批判、原爆に対する記事などが発禁処分に処された。占領後期になってからは、個人的な手紙などにも検閲の手が回った。この事実は当時の一般の大衆には知らされず、出版・報道関係者(学校の同窓会誌・村の青年会誌などのミニ・メディア関係者なども含む)以外に存在が広く認知されたのはのちの事である。
 検閲は連合国最高指令官司令部参謀部のうち情報担当のG−2(参謀2部)所管下の民間検閲支隊(CCD。Civil Censorship Detachment)によて実施された。

検閲の結果

 民間検閲支隊(CCD)はさらに10月1日には「進駐米軍の暴行・世界の平和建設を妨げん」という論説を掲載した東洋経済新報9月29日号を押収した。この記事は石橋湛山(ジャーナリスト・立正大学学長・第55代内閣総理大臣)によって執筆されたものだった村上義人は、これ以降、プレスコードの規定のため、占領軍将兵の犯罪自体が報道されず、各メディアは「大きな男」と暗に仄めかさざるを得なかったと発言している

 また、一般市民の手紙・私信のうち月400万通が開封され、検閲をうけていた。さらに電信や電話も盗聴された

 江藤淳はGHQによる言論統制についての著書『閉ざされた言語空間』のなかで次のように指摘している

 検閲を受け、それを隠匿するという行為を重ねているうちに、被検閲者は次第にこの網の目にみとられ、自ら新しいタブーを受容し、「邪悪」な日本の「共同体」を成立させてきた伝統的な価値体系を破壊すべき「新たな危険の源泉」に変質させられていく。この自己破壊による新しいタブーの自己増殖という相互作用は、戦後日本の言語空間のなかで、おそらく依然として現在もなおつづけられているのである。 

 冨嶋も被害にあっているが、鈍感なのか、そんなことをして何になると「やる理由」がさっぱりわからない。近時、一段と蛮行が強固になり、手当たり次第である。

だんあつ【弾圧 oppression】

 政治的反対勢力の政治活動を阻害,あるいは根絶するために,政治的支配層が国家権力(軍隊,警察,裁判所など)を行使すること。一般に支配層はあらゆる機会をとおして被支配層を馴化(じゆんか)しようとするものであるから,いかなる政治体制にあっても,反体制勢力の政治的影響力を抑止するためにさまざまな支配技術を用いる。したがって,その影響力が制度的に保障されている限りにおいては,教育,宣伝,説得などによる統合を試みるが,体制存立の基礎を否定するような政治的勢力の登場や戦争などの危機に際して,支配層はその体制を維持するために直接的に暴力を行使する。
 (これだからイカサマ裁判のオンパレードである。堕ちたものだよ、裁判所と裁判官。)

 出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版

 卑しい者らに利用されることなく、自分の人生(生き様)は自分で決め、自分の命も自分で守って生きていくために、正確な情報(真実)に基づいて判断することは極めて重要だと考えます。そのための道具はやはり英語(語学)ではないでしょうか。その必要性をひしひしと感じます。練っていない拙い文章で恐縮です。